54 相馬の殉死
 相馬長門守利胤が寛永十二年十月六日に死去した折に、普段の家来金沢忠兵衛という者が殉死をした。
 忠兵衛の親は備中といい、この親からさかのぼること十一代にわたって、代々主君のために討ち死にをしてきた凄まじい家柄である。
 十二代目の忠兵衛は、自分は太平の世に生まれてきたために御馬前の御用はもう無い、わが家門は先祖代々命の御用に立ってきたけれども、もはや今日ではそういうわけにはいかない。まことに先祖に対して恥ずかしい話なので、せめては殿の二世の御供を致したい、と言って殉死したのである。
 儒教では、夫婦は二世の契りとしてその縁を説明するが、主従は前世、此世、来世の三世の縁である、とする。
 支配と被支配の関係を現体制のままで固定化するための道徳思想として、これほど都合の良い教えはない。
 武家社会は基本的に朱子学的な価値体系に根差した地盤を持つので、金沢忠兵衛の行為は、実に立派なものだというので、当時はあまねく褒められた。
 義理を建てて切腹するのである。
 さて、この時に忠兵衛の傍輩たちの中に、あれが君公のために殉死をとげたが自分たちものめのめとしておっては恥ずかしい、自分らも君公につかえる誠心忠兵衛に劣るものではない、とばかりに数人の者が切腹した。
 これが論腹という。
 理屈を通しての切腹である。
 もひとつ、おまけがある。
 江戸時代を考証するための手掛かりとして、最もすぐれた史料集成である三田村鳶魚の膨大な著作を、稲垣史生という歴史家が「武家辞典」という本位まとめている。
 これによると、前二者の切腹のスタイルに加えて、驚くべき例を掲げている。
 「さしたる恩もないのに、死なずともすむものを、自分の命を捨てて君公の二世(この世とあの世)の御供をすれば、自分の子孫のためにもなるだろう、といって腹を切ったやつもある。
 これは商腹というのである、と言って評判した。」
 殉死者のつねとして、子孫には生活保護として禄が加えられる。
 死後に、増禄を見込めるなら、太平の世で戦功を建てることができないのだし、せめて殉死でもすれば死後に遺した家族の安泰を求められるだろう、という計算の上の切腹である。
 寛明間記という書物には、子孫のために君公の二世の御供をする、と書き置きして死んだ者があるという。そこまでしなければ武士が立たないのである。
 寛文三年に、五代将軍の時に水戸光圀公によって殉死法度(禁止令)が出た。しかしその後も殉死は続いた。寛文八年に宇都宮十一万石で奥州美作守忠昌が死んだ時、法度を冒して家来が殉死したが、その子供二人と外二人が斬罪に、婿と孫が追放の処分を受けた。従類処分という厳しい仕置きによtt、その後の殉死が止んだ、という。

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