十月初旬に、猪苗代地方でNHKの来春からの大河ドラマ「独眼竜政宗」のロケーション撮影があり、野馬追執行委員会からもエキストラとして延べ七十四騎が出馬した。
 敵の役か味方の役かは知らず。ロケの通例として、旗指物を替えて何度も走らされても仕方ないが、それにしても伊達政宗を主人公にしたドラマに、彼を盛り立てるために相馬藩の後裔たちが協力する時代が来ようとは。
  地下の代々の相馬藩公たちは苦笑していることだろうか。平和の世を喜んでいるやら、仇討ちいまだに憎いのやら。
 天正十七年。二十四歳の戦国の雄伊達政宗は、双六ゲームのように京へ上りたい気持ちよりは、宿敵の佐竹氏を討つことと、相馬氏を滅ぼすことの方が現実的な目標であった。
 当時の転嫁は、力しだいで自領を奪い獲れる流動的な情勢下にあった。
 秀吉も例にもれず、日本史の英雄すべての行動パターンにならって、東征を開始しようとしていた。
 天正十八年に入って、東軍は動いた。佐竹と相馬も、これに連動して兵を動かす気配を見せる。伊達に従わぬこれらの藩の動きと、生母最上氏による政宗毒殺未遂という事件が起こり、大藩の伊達は大事な時に揺れた。
 
秀吉の天下統一の眼前で、伊達は南方の相馬藩に攻め入って侵略を繰り返している。天下に号令をかけたい秀吉にとって目障りきわまりない。
 秀吉の小田原攻めに参陣して、結局政宗は会津・岩瀬・安積・安達を召し上げられた。相馬は所領を安堵された。
 秀吉の東征は東北史上、源頼朝の奥州平定以後の事件とされる。
 秀吉の天下統一の最後の仕上げは、北条氏を滅亡させることであった。このための小田原城攻略は、秀吉を日本国の首班指名するための最後の内戦であり、それが当時の総選挙のようなものであった。
 秀吉とて、天下平定の後を考えれば、奥州支配を無欠でなしとげたい。
 ところが、そんなことにお構いなく和解政宗はドサクサにまぎれて自領を拡大し、あろうことか天正十七年四月に、米沢を出発して信夫郡大森城に入った。大森は現在福島市全体を北に見渡す市南部の丘陵となっている。
 五月には安積郡に入り、会津芦名氏の二つの出城を攻略。猪苗代へと進んだ。六月四日夜、政宗は猪苗代に入り、反政宗軍の主役佐竹義広の軍と対面した。
 六月五日には、磐梯山のふもとで両軍が戦闘の火花を散らした。世に謂う摺上原の戦いがこれである。戦国時代最大の合戦となった。
 これにより会津も伊達軍の支配下に陥って奥州はすべて政宗の覇権に覆われたのであった。
 秀吉は激怒した。テレビのロケでは、歴史上有名な、この擦上原の戦いを再現したわけである。
 しかし、たった一藩だけ屈服しなかった藩がある。このことを日本は記憶すべきだろう。この藩こそ、わが相馬藩である。

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