41 日程論
 現在行われている野馬追の開催日程は、七月の第三日曜日と前後の土曜と月曜の三日間。
それまでは七月二十四日を中心とする三日間だった。これは昭和四十一年から。
 変更の理由は、学校の夏休みに入ってからという配慮から。 
 それ以前には昭和三十六年以降であるが、七月十七日、十八日、十九日だった。三十六年から四十年まで、この日程で行われたが、こ日取りの変更はいつでも議論沸騰し、この日程も四回の会議で議論の末に決まったが、もともとはそれ以前には梅雨の残り雨があって不評のため、さらに日程が移された。
 近代の野馬追では、明治五年には陰暦五月十三日。「相馬流山」に歌われた「五月中の申(さる)」の日がこの日だった。
 さて、太陽暦の採用によって、五月中の申の日は、七月初めにあたることになり、明治七年から三十六年まで、七月一日、二日三日の日程に定まった。三十七年には、十一、十二、十三日と変更された。
 これは過去三十年間、連年の雨天つづきに、行事の主催者側も参加の騎馬も観覧車も困り切った結果、十日間延長してこの苦しみから逃れようとしたとみられる」
と「相馬野馬追史」にはしるされている。
 明治以降は、野馬追は七月ということに定まったようだが、原型はいろいろだ。
 寛文五年(一六六五)は八月十九日。
 天和元年(一六八一)は五月。
 天和三年(一六八七)は八月。この年から武士の格式に応じて母衣、采配の使用が定まり、母衣は藩侯の一家に限られ、采配は侍大将、組頭、物頭の三役に限られた。
 貞享二年(一六八五)は五月。
 元禄三年(一六九〇)は五月。
 元禄十年(一六九七)は八月。
 ざっと見渡しただけでも、明治以前の日程は、旧暦五月と八月である。
つまり七月初めか、九月中頃ということで、酷暑の盛夏は避けている。
 賢明というか合理的といえよう。
 現代の論客たちは、様々な説を立てて野馬追の日程について提言する。
 鈴木重郎治小高町長は今夏の祭には最高齢出場となるが、五月連休節である。
 「都会の若い娘さんたちが、野馬追を見物に来て、なぜこんな暑い七月の、しかも普通の日にやるのかと質問される。五月の連休か、日曜日でないと困りますと言われてね。いろいろと解決しなければならない問題はあるが、五月の連休が一番いい。紅白二軍に分けて模擬騎馬戦をやったりしないと、野馬追を残すことは難しいと思う」
 と政治家らしいアイデアを披露する。しかし、そのための現実的な裏付けは何があるか、と筆者が質問したが、それはなかった。
 難しいのは、コンセンサスをまとめて変革してゆく「実行力」だろう。

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