38 昭和十二年七月十二日
七月十二日の野馬追当日の朝が明けた。大曲駒村と撲天鵬の二人は期せずして午前四時に目覚めた。祭りへとたかまっていた魂が彼等を内側から起したのである。二人は寺の庭をひとめぐりしてみた。そうして隣接する小高小学校の校庭のほうへも足を伸ばしてみた。
霧は昨日よりもさらに濃く深く、家々の軒も田も淡く溶けこんでしまって見境もない。
その中からさかんに山鳩の啼くのが聞こえてくる。
祭りの朝は、このように静謐であった。両人は朝食ももどかしく済ませ、午前六時二十分の下り列車に乗るために小高駅へと急ぐ。
小高駅から原の町駅までの区間、列車は祭り見物の老若男女でぎゅうぎゅう鮨詰め状態。
原の町駅に下車すると、ホームの人込みは小高に数倍して雑踏をきわめていた。
箕谷、翠影の二名の俳人が揃って合流し、さあ見物だ。
案内役の半谷絹村が朝も早いのであらかじめ準備していた原町の木幡清氏宅へと四人を導く。
「駅前には茶屋が軒を並べて幾十軒もあるにはるが、何れも満員で休む席とてはないのである。木幡氏のお宅は、処々松が亭亭と聳えて居る茫野を前に、宛然嵯峨の奥のやうな一構である。この木幡氏とは自分も旧知の間柄なので、久闊を叙して居ると、逸早く令閨が「何はなくともお祭りですから」と云ふてお強(こわ)などの御馳走を食卓の上に運ばれる。真竹の筍の煮しめが珍しく、何れも「旨い旨い」と貪り喰ふ」
と原文にある。木幡清は大正年間に原町紡織工場を誘致し、現在の駅前通りを隔てて旭公園の向かいあたりにみずからも渋佐機操場に並んで木幡モスリン工場を経営し繊維を商って富を築いた人物であるが工場に隣接して豪華な日本庭園と家屋をかまえていた。経営が零落した後にも福島民友新聞の原町支局長や町会議員をやり小高の文人とも関係した。
そこへ半谷絹村も自転車で駆けつける。霧は晴れて天気は良い。九時過ぎになっていよいよ駅前の木幡を道案内にして一行は町の方へと繰り出す。
戦前の原町は、町らしきは本町界隈の一本道街道沿いに焦点が並ぶだけで駅前周辺から本町までは、点々と家が続く有様。それで「町の方へ」というのである。
「原町の町中を御通りになる、妙見三社の供奉の騎馬武者行列を第一に見やうと云ふのである。とある町屋の見世先に我れ我れ一行の見物席は設けてあった」
そこで一行は町の賓客として見物するのだ。原田という町役場の吏員が何くれとなく世話をする。原町小学校内で開催中の相馬藩史料展覧会の委員をしていた小高の俳人豊田君仙子も、この場所へ合流。
在京の駒村は、こうした待遇に接して(光栄なことだな)と心底から思った。
俳友の翠影は、
「夜行もいいが、御野馬追見物の団体で混んでいて、とても眠れるもんではなかった」
などと言って、白布のテーブル掛けの上に頬杖をついて居眠りしているのであった。
駒村は、「この一代の豪華版たる御祭の渡御を前にして、十万以上と称せられるこの見物人の雑踏のただ中に、悠々」と昼寝を貪っている俳人に呆れながら、その姿をユーモラスに描いている。
それにしても、この賑わい。