37 駒村の見物記
 昭和十二年の相馬野馬追千年祭について、小高町出身の俳人大曲駒村が、俳誌「獺祭」九月号に「見物記」を載せている。
 書き出しを引用する。
 「御野馬追と云ふ祭は、自分の故郷である磐城相馬に於ける年一度の御祭である。その郷里の御祭を見物して、所謂他国者らしくお節介な「見物記」などを作るのは、何だか余りに空々しくて誰かに済まないやな気がする。然し、自分も故郷を去ってから彼此れ二夕昔にもなる。従って御野馬追の見物をしない事、はや二十余年である。さうして今年その二十余年振りで、しかも一千年祭と云ふ特殊の準備の下に行なはれたこの大仕掛けの御祭を、仰山らしく「見物記」を書いたからと云ふて、何も済まぬ程の事でもあるまひと思ふ。」
 最初にこう断わってあるのは、相馬野人間として野馬追については熟知する自分だが、在京二十年の身の上であってみれば久方振りの故郷の祭も新鮮であり、その上、一千年祭という特別の巡り合わせであり、数人の俳句の友の案内役でもあるので、「記念の為めにもぜひこの「見物記」は書いて置かねばならぬ」としている。
 幸いなことに、この文章のおかげで、我々もまた後世において「一千年祭」の様子をありありとしのぶことができる。
 大曲駒村の名は、著名な郷土出身の俳人であることと同時に「東京灰燼記」という関東大震災を記録した、すぐれたルポルタージュの作者としても知られる。
 大体において俳人の文章は、ルポルタージュとしてすぐれている。俳句そのものが、過剰な装飾を排して簡潔明瞭な即物的表現を要求するからである。しかも批評的精神が本質をとらえて伝承に流されずに、過不足なく祭を説明してゆく。
 最初は祭礼の概要を、次に日程を。
 「それから本年の一千年云々であるが、相馬藩公の奥州移封は元享三年であるから、今年は六百十四年でしかない。さうして見ると、これは、或ひは下総小金が原に於ける野馬追草創期から通算した事でもあらうか。何れにしろ、永い永い来歴のある御祭ではある」
 駒村は、俳友の撲天鵬氏と二人で正午発の常磐線下りに乗車する。
「小高に着いたのは、午後六時であった」
 金性寺の原隆泰住職が停車場まで出迎えていた。
 駒村がいつも帰省するたびに懐かしく迎えてくれる下町の町はずれの一本柳が、古ぼけた幹に、それでも若々しい枝葉を被っているのを頼もしく思った。
 タクシーが祭の宵の賑やかな町中を横切って寺の門近くで止まる。
 同夜は、この寺に泊まる。寺は金室山と号し、豊山派に属する新義真言宗で、昔は小高妙見社の別当であった。
 同寺の前住職で常陸村松の虚空蔵堂住職の原布鼓和尚と、小高在住の俳人半谷絹村とが集まり、話に花を咲かせた。
 外は濃い霧であった。
 「昔の御野馬追の絵と云ふを見ると、野を追ふて来る道の両側は田で、処々に田植の様が書かれてある。五月の中の申の日と云ふのであるから、丁度田植時なのである。」

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