36 野馬追一千年祭
相馬野馬追の歴史の中で、近代における最大の華は、昭和十二年に行われた一千年祭である。
昭和十二年(一九三七)は、言うまでもなく戦時体制の真っただ中、日支事変(日中戦争)が勃発し、戦意高揚が叫ばれ、いやます国民の間に緊迫感が忍び寄った年であった。軍神の祭りである相馬野馬追にとってはそれまで細々と行われてきた行事が隆盛に向かうための好機でもあったようだ。
軍国主義の勃興が、明治以来は時代に取り残されていた野馬追に、軍神の命を注ぎ込んだ。
それまで力も型も失っていた祭りが歴史の勢いを借りて一気に制度化された。藩政時代の軍制は措くとして、現代のわれわれの知る野馬追の原型はこの時作られたのである。
「相馬野馬追一千年祭奉賛会会則」というのがその後の規範となった。その第一条に曰う。
「本会は(略)事務所を原町役場内に置く」以下、諸々の事項が続くが、第四条の役員として「理事長 原町町長を推す」とある。
今日の体制と本質的に変わりない。ところが、驚嘆すべきはその出場騎馬数である。
実に一千百騎の馬が出場したというのである。したがって、一千百流の旗印が馬上に翻り、一千百両の鎧兜と、一千百騎の馬と、一千百なの騎士が一堂に会したのである。
藩政時代の本物の野馬追を彷彿とさせるものが、そこにあったに違いない。相馬の土地柄の潜在的力といってよいだろう。
すでに本稿で紹介済みである天覧野馬追というのは、実はこの昭和十二年の野馬追祭が準備したと言って過言でない。
天覧野馬追の推進者たちは、みな一千年祭の立役者と同じ顔触れなのである。すなわち総大将に鹿島町出身の植松練摩海軍少将。上海事変の陸戦隊長として硝煙の中から歴史の表舞台に躍り出た人物である。
相馬家主従の中から総大将を出す伝統から見れば異例のことである。
すべてが軍国主義一色の時代のこと。軍服が万事につけ最優先の時である。
一千年に一度の一千年祭というからには、考え付くあらゆる催しが行われたことは言うまでもない。
当時相馬農蚕学校の柔道教官牛来不二夫らが、同校生徒を動員させて、流鏑馬神事奉納を実施したほか、全軍を二手に分けて、模擬騎馬戦を行ったりもしたと記録にある。
古式馬術の講習会。野馬追史料展覧会。相馬家秘蔵の文化財の公開。数々の絵巻物。浮世絵による野馬懸の版画の陳列。
あるいは、日本乗馬会によるトーキー映画の撮影。
相馬の民力の走力を挙げて行われた戦前最大のイベントであった。
そうした大事業は、いったいどこへ消え去ってしまったのだろう。
歴史的根拠はともかく措いても、昭和十二年が野馬追一千年ということにすれば、来る昭和六十二年は、野馬追一千五十年という区切りの年になる。
新たなる「野馬追ルネッサンス」の幕開けはいつなのか。