30 密偵
戦国時代の末期、慶長年間のはじめの頃、その年の相馬野馬追が今や始まろうとしている時の事である。
当時の原町はそのころ、見渡す限りの原っぱで、その真ん中を陸前浜街道が細く一本通っているのみ。もともと原っぱにできた町というのが、この町の名の由来である。
野馬追行列を組むために各郷の騎馬武者たちが続々と結集していた。
場所は野馬木戸。現在の本町と南町の境界をなす駅前通りと、旧国道すなわち昔の陸前浜街道とが交わる四つ葉交差点のあたりである。
放牧された野馬を、牧の中へ止めるためにための大門である大木戸は現在の石神二小の場所にあった。
北は宇多郷、北郷から、南は小高郷、標葉郷。西に山中郷(飯曾、草野など今の飯舘村)から、夥しい騎馬が蝟集してくるのを受け付ける窓口が旗奉行である。
旗奉行の役目は野馬追に馳せ参ずる一騎一騎ごとの旗差物の図柄を一つ一つ記録した軍事的な台帳である。旗印は個人に与えられた識別記号である。したがって同じ旗印を背負った騎馬武者が野馬追に参加するということは「使い番」など指令系統の役旗以外はありえない。
しかも、旗印とは純粋に軍事的なものであって、平時には使われない。家紋とは全く異なるものなのである。
その年の野馬追に異変があった。
旗奉行の熟知する旗指物が野馬木戸に行き交うなかに、一つだけ見慣れぬ旗があった。
旗奉行にとっては旗印とはそれぞれ個別の武者の氏名を表す符号である。すべての参加武者の名と彼に与えられた旗印の図案がすべて旗帳に記されている。
見れば黒地に赤い釣鐘である。こんな旗は見たことがない。数百にのぼる旗帳の中の旗印にも該当するものがない。
不審の念から「敵!」の直観が奉行の頭脳を横切った。
「その者なにものか。名を名乗られい」
鋭い誰何があった。
それにこたえるに、返ってきたのは脱兎のごとき逃走であった。
一鞭くれるや不審の騎馬武者は、群がる騎馬の中からするすると、北に向って慌てて遁走したのである。
「曲者じゃあ。追え、追えい」
と言ったかどうか。
相馬藩方の威勢の良い若武者の駿馬が二、三騎、獲物を追う猟犬のように追いかける。
何が起こったのか判らぬ将兵たちをよそに、甲冑を着込み、旗指物を背負って完全重装備の戦国騎馬武者によるチェイス(追いかけっこ
が始まった。
一体あの騎馬は誰なのか?
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