母衣論争
 小高町の野馬追出場者の長老半谷猶清(はんがいのりきよ)は、明治四十三年七月二十五日生まれで七十五歳になる。が、今年も元気で参加する。もともと双葉中学時代に柿の木から落ちて脊椎カリエスとなり、養生ののちに十八歳で初出場した。昭和三年のことである。
 小高町大井という部落は、地元の甲子大社から「名前」を頂くという風習がある。これを住民は「おゆるし」と称し、お産の穢れを祓うのである。現在でも、この土地では新年になると、干支や方角を考慮して選ばれた文字が甲子神社に掲げられ、その組み合わせによって子供の名前が決められる。従って同じ部落で似たような名前が多い。もとより伝統をとうとぶ土地柄なのであろう。
 昭和初期の頃、野馬追に出場する者の多くは、博徒や馬車匹人夫で、士族であることを誇りとする半谷は、これらの人人のお使い番は御免だとばかりに五年ほど無役で出場した。
 昭和八年に中頭(なかがしら)、九年から十二年にかけて四回組頭(くみがしら)、十三年から軍者(ぐんじゃ)をつとめた。
 昭和四十四年五十九歳の時に、小高郷の侍大将になった。半谷の士族の面目は立ったというべきか。
 「痩せても枯れても、私は半谷家の本家なんです。今の野馬追を考えねばなりません」
 意欲たっぷりに語る。野馬追出場者による俳句をまとめて「野馬追百句」を編纂ちゅうである。
 父は絹村という俳人。妻綾子も俳人で、第四かい福島県文学賞の受賞者。俳句は、最も身近な世界だ。
 「相馬野馬追全国大会の開催をぜひ実現したい」と提唱する。
 ところで、半谷の周辺では現在、日膣の俳句論争が持ち上がっている。元と鵜穂j区電力(株)社長遠藤梧逸の主宰する俳句雑誌「みちのく」昭和五十九年三月号に、影法師なる匿名者が、「野馬追武者の緋」の母衣はらみおん大将」という句をとらえて、作者である「某大家の迂闊(うかつ)」であると論ずる小文を載せた。
「どこの世界に掘ろなんか背負っている御大将があるものですか」「母衣武者というのは、正しくは「使い番」といいまして、後世でいう伝令将校です。ですから、せいぜい准尉ぐらいのところ」「これはとりこぼしです」と断じている。
 これに反論する形で、双葉俳句連盟会長蒔田光耕が同誌七月号に、やんわりとではあるが影法師なる人物をさとすように、相馬野馬追について解説する文が載った。これで落ち着いたかと思われたが、再度同誌六十年一月号に影法師氏は前回と全く同様の内容を掲載した。しかも某大家と名を伏せて掲げた前回よりも「もっと露骨に」書いていると半谷は憤激する。
 句の作者は、大家富安風生である。
 遠藤梧逸は、風生の弟子格にあたり影法師氏の小文は、風生と野馬追に対する冒とくだ、というのである。

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