26 螺と太鼓と
小高郷文化財保存会の一行が巡った岩井市の各地で、かの地の人々は足を止めては螺の音に耳傾けた。
国王神社の神前で螺と太鼓の共演は、なかでも最高の雰囲気を演出した。
平将門に扮する武者とその一行が戦勝を祈願してのち、退場するときに初めて神田明神社中の将門太鼓が開始する。戦士の魂を鼓舞する太鼓に送られて、武者たちは境内から退くのだが、この時折よく激励するかのような礼螺が鳴った。絶妙のタイミングであった。
総じて小高郷文化財保存会の陣羽織姿の将門まつり参加は大成功だった。
多くの岩井市民が、奥州相馬の存在に関心を示し、相馬野馬追という行事の存在を知った。
かような道状的な宣伝活動の積み重ねがあってはじめて、あの本陣山の観客席を遠来の客が埋めるに至るのだ。ポスターを貼り配っただけでは人の心は動くまい。真心と敬意で接して、共感があればこそ。
ただ一泊の短い滞在ではあったが、異郷の祭りをたずねて思うのはやはり相馬の野馬追であった。
地響きを轟かせる蹄の音。風を孕み、厚い空気を突き破ってゆく旗。躍動する駒たちの見事な筋肉。瞼に浮かんでくるのは映画の一場面のごとき甲冑競馬の一齣である。スローモーションでゆっくりと、しかも力強く、若駒の胸の筋肉が盛り上がって、ぷるぷるとふるえるさまである。
走路の内側から甲冑競馬を見たことがある。私の馬のイメージはその時のものだ。
あるいは、馬の背中で揺られて、ぽかぽかと馬場を一周したことがある。
落ちないようにという緊張感だけで夢中だったし、乗ってしまえばすべて馬にまかせるほかない心境や、妙にあたたかい馬の体温や、片や胸の柔らかいぬくもりが、乗るものの感覚を刺激した。
馬は当然ながら生き物である。乗り物である前に実に愛情深い動物である。まず第一に、あのやさしい目をした人間の同胞としての生き物に対して、かぎりない愛情をもって接しなければならぬことを直感する。
そんな経験がなければ、人馬一体になって天覧野馬追の御神旗を手中にしたという杉一氏の体験談なども、とおりいっぺんに聞き流してしまったであろう。
寝食を忘れるほどの馬好きであったという人こそ、真に野馬追を愛するふとである。
こうした乏しい体験ながら思うのは、現代にあっては、もはや馬にかぎらず動物そのものに接して愛情を交流する機会すらなくなっているという事実である。
このごろ、地元の青年会議所や自治体が「馬の文化」を地域個性に、と提言し始めた。
現行の祭りに対する迎合ではなく、真に地域の未来に貢献しうる財産として相馬野馬追を伝統継承し、見直してゆくことは、そうした意味でも意義深いものがある。
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