20 愛馬市中行進
 この最後の市中愛馬行進というのが圧巻である。
 花の都の東京市中を、騎馬一千七百余が行進するのであるから、これが午後二時から約三時間。
 「どこをどう通ったのか覚えていない。馬が三歳っ子で、ぺんこぺんこ歩くので、乗ってるだけで大変だった。
 と半谷猶清は当時を振り返る。
 百騎の騎馬行列の、しんがりをつとめた。
 「野馬追の行列では、先頭か後尾かどちらかでないと目立たないから面白くない」と言う。
 ところが、野馬追の行列の後ろに、目白女子商業学校の鼓笛隊が続いていた。
「すぐ後ろでブンガブンガやられて大変だった。馬の背中が余計にはずむので、乗ってるだけで大変。いつ落とされるかと心配のしどおしだった」
 だが、後ろから「かっこいい」という声が聞こえた。しみじみと上京野馬追に参加して良かったと思った。
 それに、練習中に参加者の一人藤武重が都内行進中に、舗装道路に馬が足をすべらせて転倒し落馬するという事故が起こってしまったものの、この場合は馬の腸捻転が原因で殺さざるをえなかったが、馬の死亡にかかわらずに、陸軍から前より一層立派な馬を貰って帰ったりして、興亜馬事大会の全般にわたっての印象は悪くなかった。
 これが昭和十六年四月の、天覧野馬追の概要である。
 この天覧野馬追あるいは上京野馬追の最高責任者は、相馬農蚕学校の校長佐藤弘毅である。侍大将には、同校の牛来不二夫が当たり、また同校の鈴木幸安なども参加している。こうした軍国主義的な大会への積極的な参加や、軍国主義教育の推進者としての地位にあったことが、戦後の占領軍の施策によって責任を問われ、佐藤校長は公職追放の憂き目に遭っている。だが、いずれにしても佐藤弘毅校長は戦前の指導者であったことには変わりはない。
 殊この天覧野馬追への意気込みは、たとえ今日のような平和な時代であっても変わりなかったであろう。彼等の真情は、天皇に野馬追を見て頂きたいというところにあったろうし、また野馬追に天覧の栄誉を付与したかったのでもあろう。ただし、状況としてはあの開戦前夜の時代の緊迫した空気の中で天覧の野馬追が行われたことは劇的であり、首都で天下に披露されたことの意義は大きい。
 名簿を子細に調べてみると、若かりし時代の原町の名物男木幡忠太のちの町議、のちの原町町長堀川一正らも上京参加している。が、彼等はすべて雑兵とされている。馬の大会に乗馬しないのだから脇役にされてしまったのだ。野馬追の歴史に、この上京野馬追のことが盛られなかったことには、そんな理由があったのだろうか。郷里に帰れば役付きの人々が、中央の行事では雑兵として一束ひとからげである。不満を抱いたとしても当然のことだ。しかし今となっては多くは故人であり、尋ねるすべもない。

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