○ 小高野馬掛祭 の概況御通信申上候原の町の野馬追は二日の午後二時頃に終へ見物幾万の衆は皆小高町に向ひ申候その二日の夕小高町に行はれ候△凱旋紀念祭 は野馬掛祭の宵まつりとも見るべきものにてなかなかの壮観に御座候県社小高神社の原の町より小高町に還御せらるるは点燈の頃にして数百の供奉みな炬火をともし候に付炎々たる火光は数町に連なりて緑野に映じこれと同時にあたりの山々にはまた幾千の炬火をともし候に付全野みなこれ火と云ふ壮観に御座候煙火は続発終宵△野馬掛祭 小高町岡田に鎮座の初発神社は三日の午前十時小高神社に成らせられ候に付甲冑の行列にて供奉の人みな甲冑徒歩に御座候小高町を通過して妙見山に達せらるるや茲に野馬掛の御神事は始まり申し候これよりさき社前の広庭にはらちを結びめぐらし之に十数頭の荒馬を放ち置き申候神官はまず庭を祓ひ御小人と称する数人の若ものは放ちたる荒馬なれば蹴る喰ひ付くと云ふ危険有之、たくみに之をぼがれて捕ひ候はなかなかの奇観に御座候△妙見山の賑ひ 妙見山は小高町と小高川を距てたる丘陵にて古城址に御座候山上見物の人更に山を築き通行は殆どなりかたき程に候山上のあちこちに氷屋、すしや、菓子屋など配置されみな之れ人に御座候△町の賑ひ 近年になき人出にて雑踏を極め芝居、見せものの小屋のドンチャン、氷売りの呼び声なとにて耳を聾するばかり人はをし合ひへし合い其の中を東京ビール、仙台武田鉄砲店などの広告楽隊の練り歩くさまは名状の外に御座候△停車場の混雑 未曾有なり切符売日は一ケ所を増し駅員数名を増して取扱ひ申候(ぐ生)
明治33年7月10日民報

 註)ぐ生、と記名あるのは、地元風土を知悉した在住の文筆に長けた名士であると思われる。民報の幹部記者で常磐線の開通いらい小高を訪問してよく知る吉田菊堂と相知る鈴木余生の変名か、関係の深い人物と想定する。鈴木良雄は、さいしょ俳号を「愚堂」と名乗った。のちに「余生」と決定したのは、私淑する正岡子規と同じくあまり長くは生きられないとの肺結核の疾病を自覚からではなかったか。その中間期に「ぐ生」と名乗ったのではないかと想像する。郷土の祭り「野馬懸け」へのプライド、お国自慢を外部に発信する気風も、余生らしい。

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