あざやか江戸時代の旅日記
水戸藩士小宮山楓軒「浴陸奥温泉記「より
文政十年(1827)の野馬追実見記
文政十年(一八二七)に野馬追を見学して日記に記録していた武士がいた。
水戸藩士小宮山楓軒というのが、この人物。
野馬追記録が収録されているのは「浴陸奥温泉記」という鳴子温泉へ湯治に赴いた際の紀行文だ。
小宮山は立原翠軒の門人で祖父以来勤務士していた彰考館に入って『大日本史』編集に参加したが、そのまま進まず郡奉行となり、民政家として成果を収めた。
相馬地方の浜街道の紀行は少なく、相馬野馬追の実見記としては大変に貴重な記録だ。
「熊川。富岡より一里二十四町。これより相馬領なり。長百銭通用ここに始まる。道広く列松大なること水戸に比すべし」
と相馬領に入ったところから浪江町、小高、原ノ町と北上しながら克明に見たままを記録してゆく。
小高では「社の側に、野馬追い込み場あり。五十間四方ほどに埒(らち)ゆいまはし、候の上覧場仮小屋あり。昔は多く追入れたり、今は不用なれば多くは入れず。馬取は候の小人と言う十人ばかりありてこれを取る。七馬を捕降る由にて、繋ぎ柱七柱立てたり」
と当時の野馬掛けの様子を報告している。
原ノ町の部分では、紹介状をもって星庄左衛門なる人物の家に投宿。相馬の歴史や、見たままに甲冑武具についても記述。さすがにサムライの目から見たの馬追い印象だ。
「二十一日、暁微雨。四ツ時頃幸いに晴。早起き、原に出て観る。三番貝まで吹立て、追々出陣なり」
と、雲雀ケ原での祭の主日を書き記し始める。
「おりふし、朝霧おおいて東西とも見えわかず、。しばらくして霧晴れれば、東の方十町余もへだてたる高丘に陣小屋かけて旗四五本立幕打ちまわしたり」
と、まるで眼前に情景が浮かぶようだ。
「既にして使番物見の如きもの一二三まで乗り出す見ゆ。是よりしばらくあり、郷騎馬四五十人にて野馬を逐ふ。このときは皆鉢巻きにて乗る。二里余のあなたより指物風にひらめき駆逐する見ゆ。其騎馬の達者なること目を驚かせり。されど野馬追数百あることなかれば、逃げ乗りて又元の所に帰れば、騎士これに追すがって帰るのあり、何れもとりどりなり。このごとくなること一時ばかりありて五所の御薄くなると見えしが、此度は総騎を放つを逐わせたり。百千の野馬もここをかぎりと逃げ走る。総騎はこれに追すがり、少しも後れず、或いは落馬して主なき馬の放れて走るもありかたへの木蔭にさへ扇出してすずみ息ふもあり、又少しも屈せず、いづくまでもと追ふもあり、おもいおもいの働きせるは戦場のありさまを親しく見るが如し」
現代の相馬野馬追しか見たことがない今、古式の野馬追の実際をこのように活き活きと描いて見せる実見記は非常に少なく、貴重な史料であり、その内容もあざやかで昨日のように細部まで当時の様子を再現している。
第一級の、写真のような江戸時代の野馬追への手がかり言える。
あぶくま新報 平成5年1993年7月18日 297号