17 天覧野馬追とは
天覧野馬追とは、昭和十六年四月七日に行われた、農林省と陸軍省の主催の「興亜馬事大会」での、野馬追実演をいう。
この日、天皇陛下の午前で、百騎の騎馬武者が、神旗争奪戦を演じて見せた。
昭和十六年といえば日米開戦の年。すでに中国戦線は泥沼化し、日米関係も極度に劣悪な状態となっていた。
自国の国家体制に、完全な姿を見出したいという気分が、閲兵式や観艦式をさせるのだろう。
鎌倉時代前後の戦争なら、国というのは一地方程度の規模であるから、野馬追行事に見られるような軍隊一式で間に合うが、近代国家での間での戦争になると、もはや地球規模である。昭和十六年の野馬追は、やはり武者人形をれんそうさせる無邪気な文化財でしかない。新宿の街並みをパレードする騎馬行列の写真が今日に残っているが、忽然と現代に出現した、古代の亡霊のよなものである。
参加した郷党の人人は、素朴な心情であったろう。
日本は軍国路線を突っ走っており、ブレーキどころか、勢いを得て連合国に開戦する前夜にある。踏切板を蹴ろうという時である。
田舎の指導者たちも、黙っておれない。国家危急の今こそ、自分たちも何かしなければならぬと思うのは無理もない。当然のなりゆきである。ところで郷里相馬には野馬追という古来からの講武の伝統行事がある。天覧の馬事大会に、これほどふさわしい出し物はあるまい。そこで、野馬追関係者の有志百数十名は張り切ったのである。
「上京野馬追」と当時は読んだ。今日でも馬事公苑などで、数十の騎馬が神旗争奪戦のアトラクションを行うことがあるが、戦前のこの「上京野馬追」の意義は桁外れに大きい。
何しろ天皇ご自身に供するのである。何せ神に等しきお方の午前でする野馬追である。晴れがましさはこのうえもない。
そこで万全を期するため、参加者には各種の連絡文書が発送されたが、いかんせん、野馬追というのはつねにぶっつけ本番で、予行演習ができない。
その欣喜と不安とは想像に余りある。
当時の文書の一つを紹介しよう。
「拝啓各位愈々御清祥奉賀候
陳者左記の通り上京日程の通牒有之候之が萬全を期する為め別紙の通りの注意書を差し上げ候間御熟覧の上萬遺漏なき様手配成度点段御通知申上げ候
敬具
昭和十六年三月二十七日
上京野馬追参加者代表 佐藤弘毅
上京野馬追参加者御中
記 (後略)」
「尚原町ニ於ケル武装ノ練馬ハ取リ止ムコトニス」との但し書きがついている。
四月二日、午後六時。愛馬たちは貨車で先に出発していった。追いかけるように参加者たちが午後従事四十分原ノ町駅を出発。
馬たちは三日午後三十分、新宿駅構内に到着した。会場は代々木練兵場である。野馬追参加者たちを待っていたのは、いかめしい担当将校であった。
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