15 系図の事
 筆者の自宅のすぐ近所に、木幡鮮魚店という店がある。店の主人の木幡英紀氏が、このあいだ筆者に声を掛けてこんな物が家にあった、と言って系図を見せてくれた。
 大正年間に織物業で羽振りが良かった祖父木幡清なる人物が作ったらしい、という。小学生の息子さんが夏休みの自由研究に使うので引っぱりだしたとか。社会科の授業に、平将門が出てくるという。木幡家の系図をずっと辿ってゆくと何と平まさかぢにゆきつく。
 もっとも日本の戦前までの価値基準では、官途に就くか、財を成した商人であれ、立身出世の社会で地位を得た者は出来れば士族であったほうが良く、祖先が士分にあったとすれば、その照明として家系図がなければならず、そのための系図書きを専門とする職業があったぐらいだから驚くにはあたらないが、この結果日本人の大多数が桓武天皇か清和天皇にゆくつくという珍奇な現象が起こる。桓武平家と清和源氏と呼ばれて、この二潮流が家系図の源流の箔付けには最もポピュラーだ。これに橘、豊臣などの例もある。まあ、平将門という名前には、それほどのカリスマがある訳だ。
 「こんな系図よりも、土地か財産でも残していればねえー」
 と言って、木幡英起氏は笑い飛ばす。
 一九八五。科学万能の時代にまで、平将門の音量は生き残っているというべきか。
 相馬氏の由来については、岡田清一の著「中世相馬氏の基礎的研究」がもっとも詳しいようである。
 本著に序文を寄せて居る岩崎敏夫は、いみじくも内容を要約する形で、次のように書いている。
 
 相馬系図は、寛永諸家系図伝や「続群書類従所収のものをはじめとし、諸家に伝えられているもの等あわせて十種類あるという。奥州相馬にも相馬氏の祈願寺歓喜寺には、寛永二十一年七月吉日中津吉兵衛幸政の編纂になる原本が残っている。
 これらの系図には各々特色があって、かなりの異同と錯簡を見るのであるが、共通していることは、すこぶる容易に、疑うこともせず相馬氏は平将門から出ているとしている点である。千葉氏はどの名族から分かれているならそれだけで十分と思われるのに、やはり当時の風潮として、どこの系図もそうであるように、より優れた名門に結びつけようとする気風は、どこでも例外ではあり得なかったのであろう。
 岡田氏は、基礎となる系図を並べて丹念に比較検討し、系図の書かれた当時の歴史的背景がどうであったかを調べ、どういう状況のもとにつくられたのかの調査から始めて、結局将門を祖とすることは単なる伝承にすぎないとして、千葉氏の一族であることを学問的に論証した。

 岡田清一は、昭和二十二年に土浦に生まれた。岩崎敏夫は国学院大学の先輩に当たる。三十歳までを下総国相馬郡に住み(茨城県守谷町および取手市)、昭和五十二年四月から東北福祉大学に勤務のため、奥州相馬に近い仙台に移った。
 中世相馬氏が、関東から現在の相馬地方へ移封した事実に重なり合う出来事であり、翌年記念すべき前述の著が出版されている。当時東北学院大学教授であった岩崎敏夫が序文を寄せていることといい、多くの奇縁が岡田の身辺に渦巻いているかのようだ。これゆえに我々は貴重な研究による真相を知ることができる。これも幸運なことと言わねばならない。

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