14 不忘乱の系譜
相馬市で古書店を営む水島雄造は、筆者との雑談の中でこんな感慨を語っている。
「私は相馬の人間ではありませんが、この齢になって相馬野歴史を色々と調べてみますとね、よくもまあこんなに長い間を生き残ってきたもんだなと驚くほどです。相馬藩のような小藩が、北の伊達藩という大藩の脅威を、よく支えている。しょっちゅう戦いがあるんですね。それに南北朝の頃には落城さえしている。何度も藩がつぶれるほどの戦闘があったのに、相馬藩というのは大した藩ですよ」
これと似たような趣旨のことを原町市長の門馬直孝は、このごろ口癖のようによく語る。
「相馬藩政史というのは実に面白い。藩の危急の時があると必ず名君があらわれて藩を立て直す。われわれの時代の行政改革には大いに参考になるところがある」
門馬は、みずから企画し、ポケットマネーを出し合って優良講演で勉強会をやろうと呼びかけ、相馬市の岩崎敏夫氏を講師に招いた。演題は「相馬藩政史」である。
「優良というのは良いもんだね。普通の講演会では後ろの席からすわる人が多いが、有料だと前の席から埋まってゆく。しかも講演が終わるまで誰一人席を立つ人がいなかった」
門馬が呼びかけたのは原町市役所の幹部職員たちである。最初、彼等の中から反発が出た。
「役場の中でやる勉強会に何で自分の金を出さなくてはならないのか」と。
英明の智慧を拝借するのにタダという訳にはいかないだろう、と門馬は語る。名に寄り自分のための勉強なのだと主張したら、みな判ってくれたという。
民俗学者岩崎敏夫のロマンチシズムの琴線を鳴らし、首長門馬直孝の美意識を酔わすライトモチーフは、だいたい次のようなところである。
昭和五十六年四月に発行された「相馬野馬追史」相馬野馬追保存会編集
という本の、冒頭に監修者岩崎敏夫は、こう書き出している。
野馬追を言うためには、その背景をなす相馬の武士道に触れなければならない。
藩の存亡をかけた少なくとも五回の危機の訪れがあった。小藩でこれを切り抜け、最後まで六万石の提封を完全に守り通すことのできたことは、むしろ奇蹟に近かったと思われる。
その理由として岩崎はこう指摘する。
「暗愚の藩主がなく、危機のたびにふしぎなように名君賢臣が現れて、適切な処置がとられたこと」等である。
最大の、そして全期間を通じての危機感の大正は伊達藩であった。
相馬の存続はすべて伊達に対する緊張した生活の中から生まれたのである。
相馬野馬追という行事が、その起源はともかく、今日まで続けられてきた理由も、つまりは右のような歴史的な事情によろう。
偶然ではない。必死の、近況した国情が「不忘乱」の精神を継いできたのである。なぜ相馬の地に、野馬追という行事があるのか。単純な最初の答えは、このようなものだ。