当時の伊達の居城は米沢。相馬の居城は小高である。現代の地図を拡げてみると、それらの距離はかなりの隔たりがある。それが、ひっきりなしに武力衝突していたのだから、戦国人のエネルギーには感嘆してしまう。

 かつての歴史の主要舞台は、ことごとくさびれた小邑となってしまった。それらの地名が、最近復活している。

 岩代町の商工会青年部が昨年秋に「独眼竜政宗」の放送に先立って、武者行列を開催してから、猪苗代スキー場では、主演の渡辺謙を囲む会、梁川町八幡地区では「伊達者クラブ」を結成するなど、県内各地で政宗ブームに便乗したイベントが続いている。

 伊達の名が示す通り、政宗の祖先は伊達郡の出身であり、政宗の正室が三春城主の田村氏出身の愛姫であるところから、おひざ元の三春町では愛姫フィーバーといったところ。

 岩代町小浜に、一時政宗が城を構えたという。梁川町八幡は政宗の初陣戦勝祈願をしたところ。それぞれ、まちおこしのテコにしようという。戦国パワーのちょっとした復活と言うわけか。

 寛文十年(一六七〇)五月、中村城天守閣が落雷のために焼失した。しかし、再建には経費がかかりすぎて領民への負担が大きくなるからこれを止め、其の後相馬の城は天守閣なきことを誇りとしたそうである。

 それはともかくとして最近相馬市内の財界人、文化人のあいだでは、中村城(馬陵城)の天守閣の復原への動きがみられた。

 相馬市民の長年の宿願であった中村城天守閣復原の計画は、観光的要素に乏しい相馬市にとっては明るい材料を提供してくれる。

 戦国期の「五間に七間といった櫓に毛の生えた程度のものだった」(相馬市の民俗学者岩本敏夫氏)というが、その復原には大きな意義がある。なにしろ、政宗が造営した仙台の青葉城には天守閣がない。徳川幕府がついにその構築を許さなかったからだ。

 史実は、中村城の「天守閣がない」ことも、その理由を知れば、さらに奥深いではないか。

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