11 将門の馬
前号の簡単な年表を一瞥しただけでも、京都中央政権が、東国に対していかに過酷なほどの徴兵と挑発を繰り返してきたかが判る。中央政権に対す不満は当然のように膨れ上がった。東国は、はっきりと植民地であった。こんにちの東北が東京のそれであるように。
 東国の独立は、源頼朝の鎌倉幕府出現まで待たねばならない。
 ところで、源頼朝の冷酷なイメージは政権樹立者の非情さの側面が民衆に定着したものであろう。日本人特有の長著は義経のような立場の人物を判官びいきで美化し愛する。日本武尊も同じだ。庶民の愛する英雄のタイプとして平将門は義経と同類の、しかも元祖といってよいだろう。
 少年の日の将門は、京に上って官職を得ようと、のちの太政大臣藤原忠平に仕えていた。地方貴族はみな子弟を中央へ宮仕えさせるのが普通であった。が、藤原氏全盛の世に、立身できる可能性はなく、推定十五歳の年に父の死によって東国へ戻る。
 それから後の将門の人生は、父の遺領をめぐっての争いに端を発する戦闘の連続であった。骨肉の争いを続けてゆくうちに、軍略家としての天分を発揮して、次々に相手を撃破してしまう。
 九三九年(天慶二年)の暮れまでに、坂東八国をすべて手中に収めてしまったのである。
 この軍略の天才は、しかし無邪気なほどに政治の力学を解していなかった。
 幻の独立王国を樹立した将門は、中央からの国庁役人をすべて追放した。
 「将門記」という、いささか怪しげな文献によれば、平将門はその年の十二月十九日、神がかりし八幡大菩薩の使いを名乗る娼妓のお告げによって、みずから「新皇」たることを宣言した。
 日本の東半分を支配する新しい天皇にみずから任じ、一族を国司に任命する。
 これゆえに反逆者の烙印を押された平将門は、時代とともに朝敵とみなされては極悪の徒となったり、庶民の反逆の英雄になったりして、その名を大きく育てていった。
 時代そのものが、反乱の世紀であった。興味深いのは、将門が使用した馬である。
 半島の百済(六六三年滅亡)と高句麗(六六八)から多くの亡命帰化人が日本に渡り板東の地に多く送り込まれた。朝鮮からの帰化人たちは、背の高い馬を日本列島に持ち込んでいる。彼等の努力によって、武蔵国などは開発された。それがやがて反乱する時代となり、東北日本の在来民俗であった蝦夷が反乱を起こす時代になっていた。
 すなわち、日本民族と異民族との平和な共存はなかった。異民族が、反乱にまで追い込まれるほどの重圧を想像してみるがよい。東国の地方武士たちも、中央政権にとっては異民族と同じ被支配層でしかなかった。
 将門率いる騎兵は、おそらくその当時生産されていた背の低い小柄な日本種ではなく、外来種の馬を使用したのではないかと思われるのである。

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