両方の城が全体的に船の形に造営されていることなどだ。(小高城は、こんにちでも浮舟城と呼ばれる)
胤道さんの父胤敏さんは昭和三十三年一月に、県文化財の指定を受けるために小高城址の正確な実測図を造っており、また地形の断面図も残っているため、これをもとに胤道さんは、昨年十一月に開催された小高工業高校文化祭に、小高城址のミニチュア模型を製作し出展した。
「南北朝と戦国時代のほとんどの時期を、奥州相馬氏は小高城を居城として戦った。私自身小高城址の小高神社宮司として見に地管理している者として、素朴な疑問として、平地にぽつんと立つ城を造って、なぜ山城を築かなかったという疑問があったが、今回守谷城址を視察しまして、相馬氏祖先が、北相馬郡の地形で鍛えた戦法を基本にして、守谷城をモデルに小高城を築造したのではないかという考えを抱きました」
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