相馬市の「書林堂」という古本屋へ月に二、三度寄るのが最近のコースになっている。
たまに野馬追関係の本が出ることがある。このあいだ手に入ったのは千葉県の崙書房という出版社の「平将門論」「北相馬誌」だ。
相馬市在住の郷土史愛好家のうちの誰かがかつて求め、最近になって手放したものでもあろう。そのように一般市民にまで歴史愛好家が多いという事情が、他の土地とは異なる相馬らしさを物語っていて面白い途思った。
ちょうど千葉県の流山市という土地が、そのような町である。高校の教員らが中心となって歴史研究が盛んで各自がみなそれぞれに専門的なテーマをもって立派な著作を世に問うている。縁とは不思議なものである。
流山市と相馬市との類似性は、相馬野馬追祭という行事が介在することの縁に因っている。
わが相馬の中村藩のはじまりは、はるかに遡る一一八九(文治五)年の、源頼朝の奥州藤原氏討伐に起因する。
この時の頼朝軍は、みずからは総大将となって仙道(中通り)を通り、北陸から出羽へと進軍することになったのは比企能員(ひきかずよし)。そして東海道(浜通り)を北上する軍の大将となったのが千葉常胤(ちばつねたね)であった。
頼朝軍の政権樹立は、この年の八月二十二日の平泉藤原氏征服によってついに完成された。
律令体制からの古代日本が、貴族の京都中央政権による全国の荘園経営の落日をみ、武士集団による封建制中世の時代へと変遷する、劇的な区切りの年であった。
封建、とは「土地に根差した」という意味であって、今日いうところの封建的というところの言葉の意味とは切り離して考えねばなるまい。
歴史の上から見て律令から封建への移行というときに、封建という単語には、国家の成熟というか歴史を動かす政治と経済のありかたの、すばらしいダイナミズムが満ちている。
その当時の激動の歴史そのものを意味するような信さんさと確信とがこめられた言葉であることを喚起しておきたい。
武士は、土地を欲した。武勲はㇽおうちを得るために立てる。領地を守るためには必死になって闘う。そこから、一所懸命とか、安堵とかいう生まれた。ともに命がけで土地を守り、土地の所有を保証されて安心するという意味の、武士の真情を言い表した言葉である。
ともあれ、千葉常胤はこの時の軍功によって奥州行方郡を拝領した。相馬の版図の誕生は、この機縁に発する。千葉常胤の子、相馬師常(そうまもろつね)が相続し、重胤公の代になって、われらの土地は封建領主をいただくことになる。
時に一三三三(元亨三)年のことである。