中世ロマン「太平記」の舞台を行く
南朝天皇家は相馬氏に滅ぼされた。
皇居が浪江にあった
一九九〇年は皇室行事が相次ぎ、関連する図書が多く出版されたが、三一書房からは「見えないものの文化史」というテーマで、「近代庶民史生活誌」シリーズ第十一巻「天皇・皇室」が発刊され、この付録の月報に興味深い紀行が載せられている。
筆者は上島敏昭氏「後南朝終戦の地を訪ねて」という題である。
ちょっと紹介しよう。
「福島県双葉郡浪江町。東京から二七〇キロ、JR常磐線の特急に乗って三時間二十分あまりで、その玄関浪江駅に着く。コーナーにキヨスクのある駅の待合室も、駅前広場のロータリーも、そこから続く小さな商店街も、どこにでもある典型的な田舎の町だ。この町が、今からおよそ五百年前、後南朝最後の天皇・信雅王が行宮を置いた。ある意味では歴史的な土地であることは、一介の旅行者には、まずわかることはあるまい。また、この町の人々のあいだでも、後南朝についてはあまり表立っては語られていない」
南朝王が請戸浜上陸
標葉氏は南北朝の争乱では建武二年(一三三七)の足利氏討伐に加わった南朝方であったことは心強く感じたに違いない。
かくして文明十二年(一四八〇)秋、甲州を発った信雅王一行は三島から海路奥州へ向かう。同年暮れに、請戸ケ浜に到着したのである。
現在の請戸港と思われる。
大堀に御所構える
もう一つの皇室が浪江に上陸したのである。彼らはいったん、小野田の中祥寺に落ち着いたのち、大堀の大高倉に入って御所とした。現在の井手あたり。
「かろうじて、その痕跡をとどめているのは、大字樋渡(ひわたし)にある一基の供養塔と大字酒井の薬師堂の境内にあるもう一基の供養塔だけである。樋渡の供養塔は、同地の墓地の中にそのほかのいくつかの石碑とともに移されているが、もともとはここから百㍍ばかり離れた八坂神社の境内の百日紅の古木の下にあったものである」
「さて、御所も定まり、ようやく安住の地を得たかにみえた後南朝だったが、思い通りには事が運ばなかった。後南朝の標葉領への動座に対して伊達、田村の両氏は中立の姿勢をくずさなかったものの、相馬氏はむしろこれを機にいっそうの攻撃を仕掛けて来ることになり、その攻撃は年々激しさを増していった」
もう一つの皇室 滅ぼした相馬氏
そしてついに文明十九年(一四八七)春、標葉郷の居城権現堂城は相馬の軍勢に包囲されるところまで追い込まれた。ここに至っては大高倉の御所も安全とはいいがたく、同年夏、文明から長享hrと年後が改元されrころ、信雅王は高野川をさかのぼって難を逃れた」
権現堂城は相馬軍の包囲の中を数か月も持ちこたえものの、家臣の中に通ずる者が出て降伏し、標葉氏は滅亡した。
信雅王は葛尾村まで逃れて五十人山を背にした要害の高野城へと身を寄せたが、相馬氏は標葉氏を滅ぼした勢いに乗って翌年には裏の五十人山から急襲して難なく城を落とした。この時、信雅王の忠臣三十六人が失われ、これを祀った神社だけが今に残っている。
皇室タブーで口閉ざした地元民
信雅王は、さらに田村氏の山奥に逃れて二年は平和に暮らすが、もはや戦力を失って南朝復活の野心も捨て、生涯を先祖と家臣の供養に生きる決意を固め、落飾し僧形となり山づたいに尾張に逃れた。
もうひとつの皇統は、こうして京都朝廷かに反旗をひるがえした平将門の後裔を自認する奥州相馬氏の手によって滅ぼされるのであった。
「浪江町、葛尾村、ともにちょっと訪れただけではただのなにもない田舎町でしかない。しかし、町や村のガイドブックにも載らない秘められた歴史があり、しかも五百年以上の昔のその話が、ある人々との間では、ほんの数年前の出来事のように語り継がれている。そういう意味では歴史は生きている」
と訪問者の上島敏昭氏は筆を措く。
冒頭には「中世の出来事やそれにともなう史跡については一行もさかれていない。どうやらこれは、あまり一般的な観光資源とは考えられていないようである」と書いているが、しかし、こと皇室の歴史に触れる種類の歴史趣味であるために、あえてタブーとしてきたこともあるだろう。
信雅王は母方からの姓をとって熊沢を名乗り、この由来によってのちの熊沢天皇の伝説が生まれる。
これが世に紹介されたのは敗戦と占領という時代を背景とした戦後のことである。
暮れなずむ浪江町の各所に後南朝の遺跡を訪ねれば、それらは地元の人々にも縁うすい存在であり、日常世界の傍らに米の津していた。
南朝系最後の皇居があったという大堀の大高倉山では、ふもとの高瀬川に残照を落として、さびしい日没の風景にめぐりあった。まるでそれは、滅びゆく帝位の象徴だった。
1991あぶくま新報 正月号 月刊政経東北1月号