相馬家当主の実母相馬雪香さんの自叙伝
「心に懸ける橋」
私の四分の一は英国人
相馬家の当主相馬和胤さんの実母で慈善事業家として有名な相馬雪香さんが自叙伝「心に懸ける橋 おせっかいやきの雪香さん」を出版した。
雪香さんは憲政の父と言われた尾崎行雄テオドラ夫人の三女として明治45年東京に生まれた。才気煥発で男まさりの性格が父親に可愛がられ、幼少の頃から父の影響を受けて育った。自分で「私は四分の一はイギリス人よ」と言うように、母親は英国留学中の行雄の父尾崎三郎男爵とモリソン教授令嬢との間に長女として生まれたテオドラさんで、英国で育ち、やがて日本に来て尾崎行雄と結ばれた。厳しいしつけの中で育ち、「英語で少しでも役に立てる母親に負うところが多い」と本人の弁。好奇心が人一倍強く、面倒見の良さも加わって傍観できない社会事象に、時にやさしく時に厳しく情熱を燃やし続けてきた今日までの歩みを初めて明らかにした」次女遺伝。
雪香さんは最近ではインドシナ難民を助ける会」と改称してからは、アフリカに救助の手をさしのべるなど活発な活動を展開し、その会長の役職にある。また二十二年かけて動物愛護法の成立に奔走するなど日本の動物愛護運動の草分け的存在でみある。
相馬家へ嫁入り
雪香さんが相馬にゆかりうあるのは、旧相馬藩の流れをくむ相馬恵胤氏と昭和十二年に結婚して相馬の姓を名乗ってから。父親が政治家、夫となったにが華族の子爵。しかも婦人解放運動に興味を持つ進歩的女性であった雪香さん。自叙伝には波乱の人生そのままに」描いている。
内容は、第一章「政治家の妻として」、第二章「華族の女房となって」「第三章、引き揚げ、戦災、飢餓」「第四章、世界平和の鍵を求めて」「第五章、心に懸ける橋・自分、家族、社会、世界に」から成っている。
相馬家への嫁入りについては、「相馬との結婚と慣れない生活」と題して、
「相馬の父は、その年二月に亡くなっていましたが、結婚には賛成だと聞いていましたし、母は賛成でしたから、事は簡単だと思っていたところ、祖母、叔父たちが皆反対だったのです。理由は、私に外人の血が入っていることと、政治家の娘だということだったようです」
「とにかく、嫁いだ相馬家(東京・目白)は、今ではとても考えられないほど広い家でした。建坪が八百坪まって、大正七年に建てられたとのことでしたが、昔風の間取りで、玄関を入って奥へ行くと仕切りがあって、仕切りから中が奥で、女は表に出ないのが普通でした。表には、事務所があって、恵胤も時折そこで会合を持っていました。表の二階には、大学に行っていた弟たちが住んでいました」
「月二回外へ出られる日がありました。それは、墓参りの時だけでした。友達と会う事も簡単には出来ませんでした。編み物のお稽古を理由に出たこともありました。藩政時代からずうっと日誌がつけられていました。たとえば、恵胤様はどこにお出まし、何時にお帰りというわけで、若奥様が友達と会うだけではすまないのでした」
「使用人も多く、女中が十人くらいいました。私たち一人一人に女中がついている。私たちのことをしてくれる女中がいまして、洗濯などをしてくれますが、その洗濯はまた下の女中がする。そんなことは、今では考えられません」