もとはといえば素性知れぬ身分の出身で、短期間に巨利を積み上げた成金商人の公軌は、子の景軌にはかなりの投資をした。つまり公家たちとの交際に金を注ぎこんだのである。そのため、当時の文化界では名声が高かった本阿弥光甫の娘を迎えることさえ出来た。豪商とはいえ成りあがりの町人にすぎない公軌は、つとめて上流社会を目指しトップクラスの文化人との交際をすることが出来た。公軌親子は、この頃に公家から蹴鞠を学んでいる。のちに昌胤も、こうした縁から蹴鞠を楽しむことになる。
さて景軌の子、光軌は相馬内它家の初代となる。しかし京都の本家筋は、贅沢が祟って家運が傾き、ついにほろんでしまうのである。
相馬藩に伝わる「衆臣家譜」には、光軌は重要人物として長文の電気が掲載されており、「相馬義胤分度帳」に「一、歌人故。昌胤公御在世百石ニテ被召。上方人也。」とある。
小高助教授も「たしかに百石と二十人扶持であったらう。六万石といふ比較的小藩の相馬家として高禄の優遇と称すべきであらう。かく中村藩が光軌をゆうぐしたのは、藩主相馬昌胤公の好意がったからであらう」「(昌胤は)当時の武家の歌人中の大立者で、文事を好む将軍綱吉に愛重せられた」と書いている。
浪江町大堀相馬焼は、その創業が元禄初期とされる。大堀村の半谷休閑なる人の家僕、左馬という人が、中村で製陶技術を学び、浪江に帰って主人に伝えたのがはじまりという。
幾世橋村(浪江町)の北原に隠居していた昌胤が、これに注目して保護、奨励したらしい。
寛政年間(一七八九~)から百余の窯が煙を上げた。請戸の港から船で江戸へ出荷されていた時期の記録もある。その賑わいや、まさに思うべし。
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