文化を愛した浪江のお殿様
浪江町町長選挙の投票日の翌日、浪江町の大聖寺を尋ねたことがある。丹下左膳の「こけ猿の壺」のモデルがあるという噂を聞いてのことである。
丹下左膳は奥州相馬の中村藩士であったことは小説の中に説明してある。丹下左膳も怪人であるが、その主君の相馬大膳介というのが、もっと怪奇な人物として描いてある。
もともと丹下左膳は、主君の異常なコレクション癖が原因で「夜泣きの名刀を奪ってまいれ」との命を受けて、中村城の不浄門から叩き出され、脱藩浪人として江戸市中にもぐりこむのだ。
その主君こそ、どうも浪江町に余生を暮らして文化愛好者だった相馬昌胤こそ、モデルかも知れないと推理して、私は浪江町各所を訪ねたのである。
浪江町警察署で道順を聞いた。ちょうど新町長叶幸一氏に対する当選証書の交付式が行われるころ合いで、玄関先には若い新聞記者やテレビ局の報道班員がたむろしていた。
「この寺に丹下左膳のこけ猿の壺のモデルがあると聞いて来たのですが……」
結論から明かせば、こけ猿の壺の芽出るなる骨董品はなかった。
「あればこんな貧乏寺になってませんよ。今頃百万両で売って儲けてる」と磊落に笑う。
かわりに、ゆかりの昌胤についての話題に花が咲いた。大聖寺は、当時の藩主相馬昌胤が隠居して二十年間住んだゆかりの寺である。
青田暁知は「福島県人物風土記」という書物に、相馬昌胤の項目を執筆している。その略伝は後に紹介する。
され脇道にそれるが、大石慎三郎著「虚言申すまじく候」という本があり、同書に昌胤の時代、すなわち元禄についての面白い記述がある・
「元禄三年(1690)現在で、全国諸大名二百四十三人についての人別にその家系、略歴、居城、人柄などを指摘したあとこれに編者の批判を加えた「土芥寇讐記」という書物がある。これを翻刻した金井圓氏(東大資料室教授)によると、この本は「幕府当局ないし将軍家に密着した一定階級の、現職または退職後の高官が、幕府の政策、徳川家の支配を大前提として記述したものであって、その助手というのは隠密のようなものであったろうと推定している。
ともかく全領主的な広い視野と、他見を前提としない歯に衣着せぬ表現によって記述されているので大変参考になる史料である。」
その一例として、播州赤穂の浅野内匠頭があげられている。
「長矩、女色ヲ好ムコト切也。故ニ奸局ノ諂ヒ者、主君ノ好ム所ニ随テ、色ヨキ婦人ヲ捜シ求メテ出ス輩、出頭立身ス。況ヤ、女縁ノ輩、時ヲ得テ禄ヲ貪リ、金銀ニ飽ク者多シ。昼夜閨門ニ有リテタハブレ、政道ハ幼少ノ時ヨリ成長ノ今ニ至ルマデ、家老ノ心ニ任ス。」
とある。
著書は学習院大学教授で同大学史料館長にして財団法人徳川黎明会林政研究所所長を努める近世社会経済史専攻の大石慎三郎氏。昭和五十七年から同十二月二十四日まで東京新聞に連載されたものに補訂して筑摩書房から刊行したものだ。
朝の長矩について最後の編者評言には辛辣な筆でこう書かれる。
「此将(長矩)ノ行跡、本文ニ載セズ。文武ノ沙汰モナシ。故ニ評ナシ。タダ女色ニ耽ルノ瑞相、ツツシマズンバアルベカラズ。……次ニ家老ノ仕置モ心許(ココロモト)ナシ、若年ノ主君、色ニ耽ルヲメザルホドノ、不忠ノ臣ノ政道オボツカナシ」
と結んでいる。
これまで何十回、何百回と語られてきた赤穂浪士一件。その中で性格的に若干問題であったにせよ、吉良上野介義央の理不尽に耐えに耐えた末、ならぬ堪忍するが堪忍」をついに抜刀。耐える男として描かれた浅野内匠頭長矩像と、幕府がとらえていた真実の長矩の像との間に、あまりに距離があるのに驚かざるを得ないのである。
元禄3年段階で幕府の閻魔帳に「傾国。家滅の好色家」と烙印を押された主君長矩と「それをいさめざるほどの、不忠の臣の政道おぼつかなし」と評された家老たち。この段階で、十一年後に起こる浅野家の断絶は予言されているといえよう。有名な赤穂の事件は、改めて藩主長矩の家庭問題と藩内問題として再検討する必要があろう」
もとより赤穂藩主についての評は、これが元禄年間には有名な事件であったから記した訳で、本論は別な所に力点があった。
本稿も「土芥寇讐記」を手掛かりに、ほかでもない。元禄時代の同時代人である相馬昌胤のことを知るのが狙いだ。