南相馬市の原町駅前の市民交流センターでの岩本由輝氏による連続講演を聴いている。氏は歴史が専門だが、相馬の人で、口承の歴史的記録をも視野に含めた郷土史に詳しい。
また日本の科学界の指標である理科年表の編纂で、過去の津波被害の記述から「口承」記録が削除された経緯を考察してもいる。意図的な慶長津波の矮小化の跡を検証した。
大熊町の町史編纂にもかかわり、もっとも至近距離で原発建設と原発事故をめぐる地元の当事者である町当局トップの「気分」についても記録した。
浜通りの地元の郷土史を読破している時に、大熊町史の原発の記録だけが、厳密な検証としての後世から読むに耐える内容であると思った。多くの印刷物が原発が郷土の明るい未来を開く科学技術と国策の勝利と手放しで賞賛する記述であるのに対して、大熊町史だけが、原発に批判的な調子がすぐに読み取れたからである。
いったいだれがこれを書いたのだろう? と長い間思って来た。岩本氏の講演に出て、いちばん最初に尋ねたのはそのことであった。氏の答えは、氏こそ、その筆者だった。
30年前の「大熊町史」
実は、私は前掲「大熊町史」の第一巻。通史の「電力」の章を担当したが、そこではこの地方における「原子力発電所の立地調査」「原子力発電所の建設」について触れたうえ、とくに「原発の事故」という一項を設けた。少し長いが、引用する。
p843~
原子力発電所は、巨大なエネルギーを産みだす。しかし、原子力の制御は難しい。放射能など、現在の最高の科学技術をもってしても、人間はそれを完全に自分のものにすることができないでいるのである。もしできていると思い、原発は絶対安全と考えているとしたら、それはその人間のおごりにすぎない。いつ人間の手綱を離れて飛び出すか予測がゆかない交代にあるわけであるから、ちょっとした気のゆるみがたちまち取り返しのつかない事故につながるのであるから恐ろしい。そうしたことを最も端的に示したのが、昭和五十四(一九七九)年三月ニ十八日、アメリカペンシルベニア州のスリーマイル島で起きた加圧水型原子炉に生じた事故である。
この事故の報が入ると、大熊町の人々は大変な不安におそわれた。また。福島県も浜通りに原発銀座を持つだけに県原子力対策室を中心に強い緊張感に見舞われることになる。そして大熊町にある問う居電力福島第一原子力発電所は、スリーマイル島で事故を起こした加圧水型ではなく沸騰水型原子炉によるものではあるが、四月二十三日、仙台通産局の検査官による国の特別保安監査が行われ、また県と大熊町、双葉町による立ち入り検査が四月二十七日、八日の両日にわたって行われている。
以下、昭和48年の放射性廃液の流出の事故で、大熊町に何の連絡もなかった事例を掲げて、その間の経緯を記しながら、
当時、大熊町では町長の志賀秀正が病気で入院中であり、助役の遠藤正が事実上職務を代行していたが、その遠藤は東電から何の連絡も受けておらず、六月二十六日午後四時、共同通信福島支局の記者から事故についてのコメントを求められ、初めて事故を知ったのである。寝耳に水の遠藤は、早速、第一原発に電話を入れ、詰問した。第一原発では大熊町に六月二十六日午後二時一〇分に報告したと答えたが、その報告はまだ遠藤のところに届いていなかったのである。
問題はそこにあるのではない。第一原発が大熊町に事故を報告したが、廃液漏れの発見から二二時間もたってからという地元に対するいい加減さが問題なのである。もしかすると、県・町・東電との間に結ばれている安全協定を無視して内部でこっそり処理しようと図ったのが、遅延の原因であると疑えば疑えないこともないのである。
この一年あまりをふりかえって
原発「誘致」の問題をめぐって
前掲「大熊町史」第一巻の私の執筆部分に対する問い合わせの過程で、私が本来なら退去すべきは原発であるのに、危険区域に指定された原発周辺の地域住民が国家権力によって待避を強制される不条理を述べたとき、あるマスコミ関係者が、あとで不用意であったと釈明はしたが、「しかし、原発は地元が誘致したからきたのでしょう」と発言したことは、きわめて腹立たしいことであった。たしかに日本原子力産業会議が作成した例の「報告書」が述べているように「特に県、町の当事者などの希望が大きかった」ことは事実である。しかし、それは「当事者」がそのようにしなければならない状況に追い込まれての「希望」であったことへの目配りが欠如している発言であったからである。このマスコミ人には「部落組織も、第二時世界大戦以前に旧来のものを細分化し、行政の下部組織として改組」されていたものを自家薬籠中のものとして、地元の誘致機運を醸成したものであることへの理解などまったく見られないのである。「行政の下部組織としての改組」された「部落組織」など、皇国農村体制のもとで創出された上意下達の組織としての隣組や、そのうに置かれた部落常会と何ら変わらない。少なくとも労働組織・生産組織としての共同体ではないのである。
(中略)
さらに、旧村の精神的基盤であった神社もまた神社合祀という形で本来の住民の手から離れ、国家神道の末端に組み込まれることになってしまったのである。