常磐線開通以後

明治31年の常磐線原ノ町駅の開業によって、周辺町村、遠方からの見物人の来訪が容易になり、野馬追は急速に観光化してゆくこととなる。
福島本社の記者が取材に来訪することで、毎年の馬追は大々的に報道されて、県下を代表する祭礼という評価と位置が定着する。
交通の便と、報道。ことに、福島民報の社長に就任した松本孫右衛門の存在は大きかった。松本の財力は、まさに鉄道で儲けたものであり、その資産が見込まれて倒産寸前の民報社長に就任し、政党機関紙であった民報を大衆商業紙に改造した。また佐藤政蔵、半谷清濤らを訪問する、記者、文人たちの野馬追紹介も宣伝に寄与している。歴代の知事や高級官吏、貴顕紳士の来訪も、大いに野馬追宣伝に効果あった。一時期は、県知事、内務部長、警察部長、各部局長ら県庁幹部スタッフ全部が見物に来るというのが通例でさえあった。
野馬追が世間に大きく宣伝されるのは30年代になってからである。

絵葉書の発祥は明治33年

 野馬追にとって明治33年のターニング・ポイントに二つの重要なファクターがある。
 一つは、「汽笛一声新橋を」で始まる、鉄道唱歌の爆発的な流行である。
 これに影響された原町の佐藤徳助、中村の持舘常松らが明治35年「野馬追唱歌」「相馬名勝地誌唱歌」をつくって、大いに野馬追と相馬を喧伝した。もう一つは、逓信省の絵葉書販売の自由化を省令発布したことである。
明治35年
6.28.佐藤徳助、野馬追唱歌を出版

明治36年
7.5. 友 野馬追(一)余生

明治37年
 明治37年の新聞は、大陸での日露戦争の戦況を連日伝えている。記事の本文が大活字で詳細を報じているほか、当時は号外によってしばしば速報を出した。
 沸き立つような紙面。その下に、地方のニュースが並ぶ。相馬の野馬追祭もその一つである。この年から、七月一、二、三日の野馬追の日程が十一、十二、十三日に変更された。しばしば雨に見舞われて、これを避けたのだ。しかし日程変更したこの年も無情の雨。
7.12.○相馬野馬追祭と天候 相馬の野馬追祭と云へば毎年降雨あるの例なるが本年は其期日を繰延べたる為め風雨の障害もなく定めし壮観を呈すべしと唯た天候の佳良なるをのみ念ずる者多きか昨日福島測候所よりは暴風警報を発し海陸を警戒されたり其要領を見るに最低気圧は四国の南部に位置し中心近傍には烈風の所あり気圧は七五〇耗の速度を以て法苦闘の方向に向進しつつありと云へば昨今両日中に本県海陸を通過し去らば格別低気圧の向進が明日以後ならむには折角待ち設けたる野馬追祭も或は暴風雨の障害を受るやも知る可らず唯た昨日午前より西南の烈風微雨を載せて襲ひ来たりたれば低気圧の進行も捗るべく祭礼期日たる十一日以後は快晴の天気を見ることなるべし

明治41年嘉仁皇太子の野馬追台覧

明治41年の新聞は秋になると、皇太子(のちの大正天皇)の東北行啓が福鳥県に近づきあるため、連日のようにその様子を報ずる、福島県内では色々の歓迎行事が予定されているが、原町では10月8日に臨時野馬追が挙行されることになった。十月に入ると、準備は秒読み状態で、日増しに報遺の筆も緊張と興奮が高まってくる。そんな中から原町関係の記事を次に紹介する。
○明治41年10月8日・民報(この日の正午過ぎに皇太子原町駅到着の予定だ)
一面トップで、「奉迎」と大きく見出しがあり、奉迎鶴駕と題する辞が掲げられ、殿下の御旅情を慰めまいらすに足るもののあらば、聊か吾人臣民の微衷を表するを得へしと信し官民○て、雲雀原頭、相馬野馬追の旧儀を執行して、台覧に供する事とはなれり。」と記され、一面中央にこの夜の宿舎となる双葉町役場の写真が掲げられている。
同日の別な紙面には「原町特電(八日午後特派員発)」として次のようにある。

▲原の町混雑(明日は無前の盛況)
世想に知れ渡れる有名なる野馬追が東宮殿下の御台覧に供する為め特に盛大ならしめんと
人も馬も勇み勇む明日の晴の場を見んとて原の町見がけて集まる者は前日来より引きもきらず原の町着の上下の列車は何れも満員の姿にて二三等の客車の如きは人のすし詰を見るが如し為めに同停車場及び市内の雑踏は一方ならず各旅店は勿論民家も人を以て埋められ原の町は人の中に家屋が交わり居るが如し而して明日の準備は町役場員初め各委員の奔走によりて遺憾なく設備中にて鈴木郡長は衆を指揮して奔走最も努め居り
▲夜森公園の宵乗野馬遺宵乗は午後三時より夜森公園競馬場に開始されたるか甲胃及陣羽織を着せる野馬武者七百余名出陣し数回の競馬を試みたる右検分に相馬子爵も来たりし事とて騎士の意気込みは劫々盛なり(後略)
(この日の号には行啓記念の全面広告があり原町関係の企業が並んでいる)
明治41年10月10日・福島民報
原町特電(九日午後特派員発)
▲台覧野馬追壮観
東宮殿下は午後零時二十五分御着有位有勲者高等官軍人団学校職員生徒其他各団体の奉迎を受けらせられ五十五分牛来山御座所に入らせらるる国道に集まれる甲胃の騎馬三千余総大将指揮の下に雲雀ケ原に入りて整列す総大将は右に控え侍大将は前に立ち各隊大将順次右より左に整列せるが第一隊は青旗を指し第二隊は黄旗を指し第三隊は赤旗を指し第四隊は白旗を指し部伍整然たり一発の煙花を相図に数頭の野馬を追ひ放ち旗取の競争を始めたるか三千の騎馬馬を縦横に駆逐し鞭を挙げて旗を争ふの状○に壮絶を極む
殿下は終始御機嫌麗しく二時五十分御下山あり三時二十分御車にて富岡町に向はせ玉ふ此の日天気快晴騎馬町内を駆け廻くり甲胃旗差物日に輝き人目を驚かせり此の壮観を観んとて昨夜来当町に入り込める人々には拾数万の上に出て旅舎なかりし為め露宿したもの多し
其の盛況想ふべし相馬子爵には仙台より宮廷列車に陪乗し当町に来らせらる

 「午後零時二十五分御着」で「三時二十分御車にて富岡町に向はせ玉ふ」だから、すなわち原町には全体で三時間のご滞在という訳だ。
 本題の野馬追見物は「(零蒔)五十五分牛来山御座所に入らせらるる」から「二時五十分御下山あり」だから正味約二時間である。
現代でも、神旗争奪戦というアトラクションを二、三発みると、バスや特急の時刻を気にした観客は二時三十丹頃にぞろぞろと下山する。そして三時四十分の特急に乗り掃京するというパターンは、この頃からあった訳である。お客さまは神様というが、現代の観客もまた皇太子なみのスケジュールである。
原の町行啓(詳報)
▲殿下御着  東宮殿下には予報の如く九日午後零時二十五分相馬郡原町停箪場に入らせ
らるる、晩より先同町民は此の千載一遇の光栄を記念せんと金指郡長佐藤前町長以下有志の諸氏極めて熱心に奉迎準備に努め停車場前には大緑門を建て、紫の草花を以て『奉迎』の二字を表はし、其町端より雲雀野に通ずる曲角にも杉葉の四阿(あづまや)を建て、鉄道庁は特に停車場を黒白の幔幕にて包み○ 粗漏の無からん事を務めたり、殿下には仙台市迄奉迎せる本県西沢知事、相馬旧藩主順胤子、奉送の伊達子等を陪乗せしめられ、停車場に入らせ給ふや、ここに数発の煙火は打ち揚げられ、○(やが)て御車に召されられ石井原警察署長先駆、西沢知事響導、侍従長以下の供奉員を随へさせられ、有爵者高等官、在郷軍人団、各学校其他の奉迎を受けさせられ、各団体には一々挙手の答礼を給ひて雲雀が原に向はせらるる、此日天気晴朗、秋風の僅かに御衣を払ふありしが学校生徒には安積中学校、磐城女学校、宮城県丸森校等十数里の道を遠しとせずして奉迎せるあり、沿道全く湧くが如き歓迎を受けさせられ、其原町に差懸らせられ牛来山下において愛国婦人会員並に百十三名の萬齢者に挙手の礼を賜ひ、同五十五分予期の如く牛来山なる御座頭に入らせらる、此日の奉迎者無慮十数万人と称され町内停車場より原に致る沿道は全く入を以て埋められたり。
騎馬行列到る此より先き当日の野馬追に参加す可き騎馬武者は午前七時を以て出陣の要意を為し、八時集合し、御召車の停車場に着くに先立ち鉄道線路に沿ふ国道に整列して御車を奉迎し、御後に供奉して原に入る、時正に殿下鶴座所に入御ありて数分を出でざる時にして、蜘蛛の子を散らせし如く原町に参集せる群衆を縫ひ警護の警官消防夫の間を徐々として練り来る二千騎の騎馬武者、思ひ思ひの甲胃に、旗差物を秋風に翻して野に入るや、馬の嘶き、草摺れの音野に満ちて野は忽ちにして活気の躍然たるを覚ゆ、行列は先乗、物頭、鉄砲、弓、小鳥毛、明白旗に次いで相馬家の旗印たる黒地日の丸、青旗、黄旗、赤旗、白旗、黒旗、大龍旗、馬印、野馬団、螺役、陣太鼓、軍者、使番、持筒、持弓、兜、熊毛槍、兼大目付等にて此に次で総大将相馬胤○氏黒地日の丸・紫白丸指・長蛇旗・用人・侍大将・中間・兼勘定奉行、中頭、中ノ郷騎馬、組頭、郡代家老中頭、中目付、小高郷、標葉郡へ北郷、中村騎馬等にて何れも相馬家故例にならひたるものなりしが、郡下の御座所下を通るや、殿下は態々西沢知事を召し給ひ、相馬子を召し給ひ、相馬子爵は殿下に呎尺して行列其の他の事ども一々御下問に答え奉れり、而も此時西風刻一刻吹き荒み、西の空さへ曇りし天候不穏に兆したれば供奉の人々は堪えずして幕の裡に潜むもありしが殿下は独り厳然として御座所に控へ熱心に行列を御覧遊ばされしも、供奉の者より余りの冷気に風烈しければと申し上げ強て御座所裏に椅子を奉りここにて御覧ありしが、折悪しく一陣の強風雨を孕んで来たり
玉肌を冒し奉りたるは畏れ多き極みなりし、
▲野馬追始る 斯くて騎馬に一行は場の中央に定めの陣立を為せば、折しも響く法螺の音に、西南の一方追ひ込み来る数頭の野馬、素被と許りに騎馬陣を乱して駈け出せば、場の一角よりは煙火打ち揚げられて大旗中空に翻り風に従って飛び来るを我こそと手に手に鞭を打振りうちふり追ひ廻る斯て野馬追はここに開始されたる也。(中略)
▲旗印を召さる 此の有様を御覧遊ばされたる殿下は甚だ興ある事に思召されて再び座を御座所内に戻されられ極めて熱心に御覧遊ばされしが西沢知事に饗はせられ彼の旗印と人名を知らせよと仰せ出されるより直ちに用意の旗印と人名簿とを奉りしに御持返りの栄光を得たり、
▲写真を召さる 殿下は又御覧の間に此の光景を写真に取りては如何との仰せもありしが殿下の御前畏れ多しと申し奉りしに殿下は撮れとの仰せありしより、知事は原の町写真師に命じて之を数葉撮影せり殿下の御心の御広さを察し奉るべし
▲殿下御還御 斯て殿下には午後二時五十分牛来山を下らせられ再び御召車にて沿道前記の奉迎を受けさせられ午後三時二十分原町停車場御発車富岡の御旅館へと向はせられたり

 この時の様子を、沿道で東宮到着を迎える群衆の中に、押釜から見物に来ていた小沢トリさんがいて、あざやかに記憶を語ってくれた。
 「(偉い人が来るからと)道にならばされて、旗を振って見た。(人力)車に乗って来た。顔の細い人だった。」
 と。
 「▲写真を召さる」の記事にあるとおり、「殿下は又御覧の間に此の光景を写真に取りては如何との仰せもありしが殿下の御前畏れ多しと申し奉りしに殿下は撮れとの仰せありしより、知事は原の町写真師に命じて之を数葉撮影せり」
 撮影のために準備していたにもかかわらず東宮の前では遠慮してかしこまっていた写真師に、東宮は「撮れ」と命じて撮影させた。原の町写真師というのは、実は地元の人ではなくて、福島市から来ていた鈴木写真館であった。この時の写真は、記念誌にまとめられているが、茫漠たる野原の一直線の道を繰り出す野馬追行列の瞬間が大きな俯瞰でとらえられている。

明治42年

 翌々年の7月には、祭初日に民報に野馬追の写真が掲載されている。これはもちろん、絵葉書用の野馬追写真を撮影する業者が、地元で土産物として絵葉書を販売する店に依頼されて先年に撮影したもの。42年夏の撮影と推定される8枚セットの絵葉書写真があるが、この中の1葉に、韓国国旗を掲揚し、これを前に野馬追騎馬が整列するものが含まれている。
恒例の野馬追のほかに、8月、特別に108騎を召集して臨時野馬追を開催。
日本における父親代わりの伊藤博文公に連れられた韓国皇太子が、東北巡幸の途次に、平駅に続き、原ノ町駅にも停車した。
伊藤はこの年、ハルピン駅頭で、革命家安重根によって射殺される運命にある。大韓帝国は翌年、日韓併合によって亡国する運命にある。韓国皇太子はわずか十歳の政治的人質であった。
 原町駅東側で、車窓からよく見えるような場所を選んで東京からのご料車到着を待機した。列車が駅に近づくと、花火が揚げられた。日韓両国の旗が入れられていた。これに気づいた伊藤公が「停まれ」と命じた。列車は徐行しながら駅構内に滑り込むが、停車は6分。都合4分間の野馬追を演じて見せた。
 前年の東宮巡幸時の野馬追写真や、子供の絵を記念の土産に渡したという。車中で、それらを眺めたであろう。この項、福島新聞、民友による。
 復路に韓国皇太子らは福島を訪問しているが、寝所に野馬追の屏風を飾った、という。民報による。
 
明治43年 上洛野馬追4月5日~

4.17.民報 上洛野馬追記 志賀擬山
 今二日旧三月三日東都靖国神社に行わるる彼の万延元年時の大老を桜田門外に倒せし桜田十八烈士の五十年祭典葬祭土方伯以下の懇望に依り相馬野馬追祭典の出馬の有志百五十に限り甲冑に身を固め騎馬に打ち乗り遙々東都に推し登りて十八烈士の霊前に参拝する事となりたり今其趣旨其他を聞くに由来相馬旧藩は其学派を水戸と同うし維新の際の如きは藩士西貫之助を始めとして所謂水戸浪士と行動せしものの少なからず又勤皇の大義を唱えて各藩を遊歴し異郷の空に客死せしもの三十余名に及び」うんぬん。
 「而して右出馬方に就いては佐藤徳助、半谷清寿、藤崎重行、遠藤六之助、佐藤政蔵其の他の諸氏専ら事に当りて奔走し四月二日」「諸氏原町停車場前丸屋旅館に集合して万般の事を協議したるが総裁より贈らるる可き筈の手金などは辞退し汽車賃宿泊料の外は一切自弁を以て出馬し誠意誠心十八烈士の霊を慰むるに努むべく申し合ひをなしたり又東京に於ける動作を聞くに百五十の相馬武士は十一日原町一番の上り列車に搭じて上京し上野停車場前山城屋、名倉屋に分宿十二日早朝甲冑武具を固め上野不忍池畔に勢揃ひをなし馬場の周囲を乗り廻し更に行列を整ひて上野広小路を真直に万世橋、須田町、小川町を経て靖国神社に御参拝夫れより二重橋前に至りて薨去を拝し更に幸町なる旧主相馬子爵家に至りて旧君に謁しここにて馬を乗り捨て特に之等相馬武士の為めに設けられたる二十台の花電車に乗じて東京市中を練り廻す由なるが実に今回の祭典中第一の壮観たるべしと言ふ左に行列順序を掲ぐ(略)」
因に今回の出馬希望非常に多ければ中村、原町、小高の各地に於いて目下武具其の他の検査選抜を行ひつつあり」

4.18.民報 上洛野馬追雑記
これらの記事は、原町出身の志賀義三郎が民報記者として同行取材している。志賀千代蔵と兄弟で民報に勤めていた。原町はホームグラウンドのようなものであり、野馬追を紹介する筆にも力が入った。

大正5年 東久邇宮 野馬追を台覧す

大正5年7月6日の福島民友紙が、東久邇宮は原ノ町に野馬追祭を視察に来訪すると告げている。明治41年に大正天皇が東宮の時、皇族として初めて相馬野馬追祭をご覧になった。このことは地方祭礼である野馬追に箔が着いた。時の町長は松本良七。翌年、町長を辞して東京の家族と合流したが床屋で顔そりした時の感染症のためにあっけなく死去した。松本孫右衛門から福島民報社長のポストを譲られ一時は政友会の福島県の雄であった良七にとっては原町を去る最後の花道であった。
「東久邇宮殿下にて既報のごとく相馬郡原の町野馬追祭へ御成りの為来る十日午後十時三十分上野駅御発車十一日午前五時五分原の町駅御着同町に御一泊の上同祭礼を御覧ぜられ十二日午後十一時二十五分原の町駅御発車十三日午前六時上野駅御着車の事に決定したるが沿道官民多数の歓迎あるは勿論にて福島連隊区同司令部管内御道筋の在郷軍人会分会員は各代表者を付近停車場に派遣し御歓迎申上ぐ可しとの事なり」

大正6年の野馬追を台覧された東久邇宮稔彦殿下。帰京して皇室で、裕仁東宮殿下に相馬野祭りについて伝えたであろう翌年には、裕仁東宮が東北巡幸のついでに常磐線原ノ町駅を通過する時に、われらの郷党たちは並行して、騎馬行列の隊伍を組んで、野馬追の一端を披露した。

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