「近世大名家の名品集 奥州板倉家を中心として」が、原町市の「野馬追の里博物館」で開催された。八月二十九日午後一時半から、県歴史資料館の阿部俊夫学芸員が「譜代大名板倉氏と福島藩」と題して講演した。
 近世、相馬家はいくつかの大名と縁組をしているが、そのなかに板倉家がある。
 両家は、延宝四(一六七六年)六月十一日、中村藩第四代藩主相馬貞胤に板倉重矩(しげのり)の娘お梅が嫁ぎ、享保十一(一七二六)年六月七日、板倉勝里の娘お秋が相馬家に嫁ぐという二度の婚姻関係を結んでいる。
 相馬昌胤は五代将軍綱吉の治世の側用人や公卿の饗応役を拝命し、幕閣や公卿との交流を深めている。相馬にはいまなおこうした「みやびの世界」の文化財が残っている。
 「名品展」は、福島市の板倉神社の収蔵品を中心に、中村藩の資料を加え、近世大名の暮らしと文化を拝見した。
福島藩主・板倉家の宝類が、なぜ原町市で公開されるのか。
 博物館は、相馬野馬追が行われる原っぱに隣接する後背地にある。ふだんは人通りが少なく、集客に苦労するような場所だ。ところが、一年に一度、野馬追祭礼のときだけは全国から数万人の観光客が集まる。
 そのときに、見せる物がない。なぜなら、先祖伝来の甲冑は祭りのために着用するからだ。臨時の大駐車場となる博物館で、格調高い文化財を見せようにも、明治以来の新開地たる原町には、近世の武士文化財は皆無なのである。
 今回の名品展は、苦肉の策といえる。しかし、それがきっかけで福島県都の板倉神社に伝わる貴重な文化財が、福島市民に先駆けて原町市で公開されることになった。
 かつて「ふくしま意外史」の本欄で「知られざる福島城」と題し、板倉氏について言及したところ、福島市内の渡辺又夫氏から(粉又社長)手紙をいただいた。
 「私は板倉の家臣の末裔ではありません。たまたま、郭内にあった杉妻稲荷神社(現在、紅葉山公園)の隣に住み、神社をお守りしてきた関係で、明治以降、板倉氏にご交誼をいただいており、福島城の記事が出たとき、問い合わせたことがあります。
 おっしゃる通り、福島市民の歴史認識はまことにお粗末で、福島市は今回の企画展にまるで面目なしといえます。
 ところで、板倉氏が福島に就封したのは一七〇二年、まもなく三〇〇年を迎えます。郷土史家はみな承知しているのですが、さて・・・・。
(ふくしま意外史「相馬野馬追の謎」1999/8月号より)

 と、書いたのはかなり昔の事だが、二〇〇二年の当たり年がやってきて、さすがに県都は、若手の青年会議所を中心に機運が沸き起こって、福島藩三〇〇年記念の大名行列が実現した。
 ただし騎馬行列は野馬追の本場の相馬市から渡御行列の常連騎馬武者が助っ人出演し、おとなり山形からは鉄砲隊が参加して、華やかに盛り上げた。福島市の商工会からは徒士組の警護武士と、着飾った姫装束の見事な行列を披露した。面白かったのは馬車仕立ての企画で板倉家後裔が特別出演して、戊辰か明治かとみまごう光景に、趣向も今ならインスタ映えのする特別イベントであった。
 わが南相馬市の博物館の企画は、まことに健康な文化的刺激を与えてくれたことよ。
 
 
 

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