昭和二十年八月十五日。水曜日。晴。82度(華氏)。
出勤第二班。
第二校舎東昇降口図書並びに紙類 並びに整理
宿直室の畳講堂に乾かす
異常なし。

晴れていた。静かな朝。そして静かな昼。
空襲警報は鳴らなかった。
原町国民学校の当直は、敷く直室の畳を天日に干した。
原町陸軍飛行場では、ラジオがなかったので、近所の農家で
正午のラジオを聴きに行った。
原町憲兵分隊に、福島県庁まで出頭せよ、との命令があったので、未明から阿部班長がオートバイで、出発した。
到着して出張したら、本日正午に天皇陛下の重大放送がある、と知らされた。急ぎ、とんぼ返りで原町に向って急いだが、手前の石神村のあたりで正午になった。
大熊の夫沢飛行場には、特別攻撃隊学鷲隊の99式軽爆撃機が配備されていた。爆装して、いつでも出撃できるように準備していたのに、終戦の詔勅が放送された。
いそぎ、ガリ版で、まだ戦争は終っていない、最期まで闘え、という旨のビラを積んで、周囲の村の集落に撒いた。
太平洋から、米機動部隊空母の艦載機が出現すると、日本軍の双発機は、すぐに姿を消したのを、楢葉町の木戸駅の金成駅員は見上げていた。
原町飛行場では、倉庫の食料、毛布を、トラックごと横領して遁走するものが出た。
わたしの父は、千葉の鉄道連隊に入隊してわずか一週間。
「最初の三日は待遇がよくて食事の飯の盛りもよくて歓待されたが、訓練が始まって、小銃もない状態だった」。
これで戦争しろといわれても無理だろう。
長兄二上兼次の合同葬儀は、9月になってから、龍泉寺で執り行われた。たった一枚、ミドリ伯母と、子供たちの写真が残っている。
悦子をかしらに、恵美子、令子の従姉妹。敦嗣子、郷嗣、裕嗣の従兄弟が、幼いままにセピア色の画面から、こちらを見ている。
彼らが、その後、どれほどの辛酸をなめることか。母親は、夫の身代わりに原ノ町機関区の事務員として男の職場で働くことになった。
最も父を母を必要としていた子供時代に、かれらは母の苦労を知りぬいて育った。だから、いま、郷里で、すべての子供たちが、母のそばで、かしづくように何かと実家に集まり、母親の面倒をみる。
8月12日、福島の桃を持って、伯母を訪ねた。
67年前に、伯父が、父の出征の祝宴に集まってくれた同僚たちに配って歩いた最期の桃は、命そのものの象徴のように思われる。
赤ん坊の、健康でふくよかな肌のごとき、頬のごときばら色の弾力。
お尻のような、かわいらしい丸み。
生きているものの、あたたかさ。生きていることの甘さ。生きていることの弾力。みな生命の象徴だ。
伯母は、ほどなく百歳に達する年齢である。
伯父は、39歳という若さで死んだ。わかいままの写真が、われらをみつめる。父は、59歳で死んだ。鉄道を退職して3年目に。いま、ぼくは、父と同じ年齢で、飽食の時代に、食物に飽き足りて、勉強したければ、金がなくても大学にもいける。何でもできる。海外旅行さえ。
生まれた時代が異なるというだけで、苦労ばかりして、国家によって兵隊にとられ、消耗品のごとく、殺された時代があった。安全なはずの銃後にいてさえ、米軍の直接の空襲にさらされ、空爆で殺された時代があった。
湾岸戦争、イラク戦争、アフガニスタン戦争。蹂躙される彼らと、同じ状況に、かつて日本があった。沖縄は、いまだに占領状態だ。
国家と政商東電の不始末放射能によって、福島人は、放逐されて、忘れさられ、放置されたままだ。
この国を、祖国とか母国と思えというのか。ぼくらの父も母も、自分の身を削って子供に尽くしてきた。命を捧げてきた。
終戦記念日。隣の国では、赤丸つきの国民の祝日である。アメリカ軍を開放軍として迎えた時代もあった。
国民を守らない国に忠誠を尽くせといわれれば、アメリカ日系二世部隊のように、ぼくらには二つの敵がある。正面の敵と、後方の敵と。
Go for break!

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