8月14日
昭和二十年八月十四日、火曜日。曇雨。
午前中警戒警報二回発令。異常ナシ。
直宿、三島とある。
小高区の三島定信教諭であろう。この年の三島のクラスは六年生で、受け持っていた生徒の中に韓国籍の少年がいた。少年は、終戦と同時に父親につれられて祖国韓国へ戻ったが、のちの挑戦戦争で兄弟を失うなどの辛酸を舐めた。南部の鎮海市に住み、薬剤師の免許をとり第一薬局と言う店舗を経営。まじめな生活は天理教の信仰ゆえであったろう。ロータリークラブの会員となり、鎮海市の市会議員なども務めた。昭和60年のある日、彼は天理市への巡礼のため信者を引率して少年時代以来始めて日本へ来訪。なつかしさのあまり、単独行で原町市を訪問した。たしか駅前に生んでいた家があったはずだと思って、歩いて探してみたが、家並みはすっかり変っており、旭町四丁目のあたりまで来てしまった。親切好きな高野商店の主人福寿さんが、彼を見かけて「どこの家をさがしているのか」と声をかけた。事情をしった高野氏は、雲雀ヶ原や、原町第一小学校(かつての原町国民学校)などを車で案内し、同級生に相談したところ、当時の同級生をさがしあて、なんと天理教原町教会の夫人の実家の伊藤神仏具店に、同級生の伊藤氏がいることが判明。その夜、きゅうきょ三、四人での同級会が開かれた。この仲間は平素から毎月のように集まる仲良しグループで、このエピソードを近所の三浦食堂の姉から聞いてわたしは自分のタウン誌に書いた。それが伝わって、天理教150年の記念すべき年に、神のみちびきで奇しき再会、というタイトルで大きく、天理時報という新聞に出た。
三島定信さんをべつに探し当てた私は、家族との韓国旅行で友人宅をたずね、後半の一週間を、鎮海の第一薬局に滞在し、ビデオレターを撮影し、帰国して小高区の三島先生のお宅で、そのビデオを見せた。
出発前に三島先生からのメッセージを撮影して言ったのはむろんこと。あのころは、ベータカムの8ミリが発売された頃だった。
国民学校日誌の8月14日に記入されていた「三島」という当直の教師名から、思い浮かぶままに。きょうは、朝から雨がふり、曇り空。67年前に南相馬の天気もこんなふうであったのだろうかと、はるかな思いで曇り空を見上げている。
金且得(キム・ドック)さん、どうしているだろうかな。ずいぶん時間がたった。1991年の頃の話である。
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