誰も身動きを取れない。
飛行機はぶんぶん上空を飛んでいる。
やがて、飛行機の姿が途絶えたのを見計らって近所の人たちが集まって来た。
「取ってくれえ、とってくれえ」と、それは苦しそうにおイクさんは言っていたんだよ。体の中に破片が入ったままだからなあ。どうしようもなくてなあ、はあ」と門馬ミサオさん。
「布団も着物も、腰に巻いてしばりつけていた通帳だのも、みんな貫いて手の平ほどもある破片が刺さったんだ。腸も何も、あったもんでない。
首ってくれえ、首ってくれえ
と、イクさんはオラに言って頼むんだでな。kし腰のあたりが三倍にもふくれたように腫れてなあ」
松本ミノさんは、その日のことをこう話した。イクさんは、あまりの痛みに耐えきれずに、自分の首を絞めて殺して欲しいと訴えたほどだった。
「三時間半ぐらい、生きていました」
と娘の淑子さんは思い出す。
「その夜、墓場に運んで埋めました。もちろん、身内だけです。それから十五日になって終戦になったので、掘り起こしてあらためて焼いたんです。ですからおくな供養も出来なかった」
イクさんの命を奪った爆弾の破片は、しばらく家にあった。
「焼いた後から、腹の中の破片が出てきてなあ、ネジのついた、掌ぐらいの鉄だった」
と門馬さん。
七月十二日、ちょうど近所のおばあさんがお茶と団子をふるまわれて、御馳走になった。近所のおばあさんも「んだどなあ。んだどなあ」と相槌を打つ。
「あんな戦争は二度とごめんだなあ」
しみじみと門馬ミサオさんは言う。

昭和56年夏。期末考査の午後から原町市内を取材した。当時はまだ、原町空襲の体験者、犠牲者の肉親が健在だった。

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