講習室の天井
「四十七機までは数えたよ」と言うのは、鈴木重政さん(六四)である。
「あの朝六時半頃なあ、兼次さんは三歳ぐらいの息子を連れて、自転車で栄町のうちに来てくれた。土産をもってね。今日も敵襲がきっとあるから、休みなんだから仕事には出ない方がいいって、何度も行ったんですがねえ、「いや、出る」って言う。玄関先でしばらくやりとりしたんだけれども、結局あがらずじまいだった」
須々木重政さんは当時二十七歳で、機関士だった。その日は、二九二列車の乗務にあたっていた。
「どういう訳だか、主席検査掛の酒本さんが、真新しい作業服を着てたのを見てて、どっかで頭にありましてね、その腕が酒本さんのだろうと思ったんですよ。紺野義身は私の兄にあたるもんですから、ずいぶん探しました。必死で抜け出したようです。二上さんは生きていたし、志賀さんは息があった。あとは金歯で判断するぐらいの状態でねえ…」
高橋喜司さんという人が、機関車の下にもぐりこんで難を避けようとしたが、足を負傷した。
「高橋喜司さんと井戸川五郎さんを渡辺病院に運びました。
機関区に戻って、また空襲。ほとんどみんな逃げちゃいました。
私の助士の鈴木一夫君のお父さんに会いましてね。うちの息子は大丈夫なのか、と聞かれてね、困りました。自分のことばっかりで夢中だったが、気が付いてみると、こりゃ大変だとなって、橋本君という友だちと一緒にまた夕方機関区へ行ってみた。
当直の大和田義助さんのほかには、中本四郎君(当時二十歳)という機関士が、一人で遺体の番をしているだけ。えらいもんだと思ったね。ああいう時に、ああして夜まで番してるんだからね。度胸というか立派なもんですよ」
私は紺野義身を連れて家族の対比している高ノ倉へ行きました。」
講習室の天井には、無数の機銃弾の穴が、黒いシミのように、あいていた。