石神村役場
石神村信沢田の自宅前の田で、佐藤弘地さんとその家族は農作業にとりかかるところだった。空襲が激しいので、しばらく様子をみていたのだが、仕事をはじめたやさきのことだった。弘地さんは、念には念を入れてと、背中に木の葉をつけた枝を背負って、擬装していた。出征中の長男の妻と、娘が一緒であった。
もう一人の娘ツル代さんは、当時石神村役場に勤めていた。
出勤してすぐ空襲がはじまった。戸籍係のツル代さんは分厚い戸籍簿を抱えて逃げ出したが、役場の防空壕はすぐ満員になり、入れなかった人たちは裏山へ退避した。
石神村村役場の裏山というのは、現在の石神公民館・公園になっている場所。二宮仕法で名高い富田高慶の家族が眠り、農の偉人二宮尊徳の遺髪を分埋葬した墓所のある、いわば相馬地方の聖地のひとつである。当時ここには、十七、八歳の少年兵たちが駐屯していた。
敵機は役場や学校の上を低空でなめるようにやってきた。少年兵たちは小銃の筒先を空に向けて、彼らなりの抗戦を試みた。
役場庁舎、学校に機銃弾が注がれた。そのたびに薬きょうがバラバラと雨のように降ってきた。主に狙われたのは、松根油の製造工場だったが、民家にも銃弾が撃ち込まれた。
第一波が去った後で、ツル代さんが役場に戻ってきたところで、
「お父さんが負傷した」
という知らせが来た。
一息つくひまもなく、ツル代さんは家まで駆けた。
母たちが、父親弘地さんを囲んで、真っ青な顔をしてうなだれている。
右大腿部の盲管銃創であった。
「当時はね、鬼畜米英の弾は毒が縫ってあって、当たったら死ぬというふうな噂がゆきわたっていましたから、みんなもうはっかりしてました。マーキュロを塗ったぐらいであとは薬なんて、何もなかった。
宮川さんという保健婦さんが飛んで来た。だが薬箱から取り出した薬は、マーキュロしかなかった。
太ももの穴は一つきり。弾丸はまだ脚の中にある。そこで町の病院まで運ぶ算段となった。近所の氏家義夫さんが、弘地さんをリヤカーにのせ、自転車で引っ張ってくれた。それツル代さんが走って追いかけた。
だが、町にたどり着くまでに、再び空襲に遭った。
水無川の橋まで来たところで敵機がやってきた。リヤカーはすばやく橋の下へすべり降りた。
やりすごしてまた走り出すと、再び敵機。今度は近くの家のカボチャ畠に隠れる。
どこの家でもボリュームいっぱいにラジオをつけていた。その家のラジオは「郡山空襲」について放送していた。
外科病院である宇津志医院に着いて、手術しようという時に、また空襲になった。防空壕には水がたまっていた。
「馬場の方でも怪我人が出たそうだ」
病院にかけつけていた人のなかに、そんな話をする人があった。