鈴木勝利氏インタビュー
「朝の九時頃だったか、電話が来て斉藤和夫君という生徒が死亡したという連絡があったので、自転車でかけつけました」
鈴木勝利氏は、自宅でくつろいでおられた。相馬商業学校の創立から、原町女学校との合併、戦後の新制原町高校への移行の状況等について詳しくうかがって来た。わが原町高校の生き字引というより、原高の存在そのものを象徴する人物なのである。
「二月の空襲では被害は(相馬商業では)ありませんでした。八月の時には校舎にこそ直撃弾は落ちなかったが、近くの常福寺が炎上した。校舎を狙ったものでしょう。あの頃、原紡で作った製品を学校に入れていましたから、講堂を倉庫がわりにして天井まで積み上げてました。
鈴木勝利氏の自宅は駅前にあった。至近弾の爆風で硝子戸が敗れた。爆弾は現在の昭和タクシーの敷地に落ちた。当時駅前にあった石川製糸工場跡地(片倉製糸が管理)が郷土部隊の兵舎がわりにされていたので、そこが狙われた。このように、軍に関係する建物はほとんでが爆撃された。
終戦の日は学校の近くの宮井さん(菓子店)宅で玉音放送を聞いた。教頭ほか鈴木健次郎、高田豊記などの教員が一緒であった。
内容がよくわからなかった、という。
「負けたんだな、とは思いました。十六日でしたか、陸軍の飛行機が仇を討たねばならないというふうなビラをまきまして、二、三日ぐらいは同感だったかもしれませんが、九月に入ると、あきらめの気持ちが大きくなった」
戦後の占領軍についての感慨はございますか。
「食うのに忙しくてね。(戦争に負けたことが)残念だとは思ったが、やがてしたかがなかったと思うようになった。チョコレートとかキャラメルの方が子供には魅力的だったね」
戦中戦後を通して最も印象に残ることはどんな事でしたか。
「物がなくて買えなかったことだね。子供が外套を買えない。昔は火鉢ぐらいで暖房なんかなかった。寒かったですよ。外套を着ていない子供がいる時に、校長としては着れなかった」
七月二十七日。外では雨が降りしきっている。鈴木勝利氏は、私の質問に対して一言一言ことばを選んで慎重に答えられる。その誠意あふれる態度に私は敬服した。その慈父のごとき懐から母校を巣立った相馬商業学校時代の卒業生たちは、アルバムで見ればみな童顔の少年であった。
このごろ私は、この小さな町で成長したことや、この町に住んでいるということを、あらためて意識するようになった。
私の誕生以前の町の姿ではあっても、風景や、同窓といったことどもを私に激しく意識させるのはなぜなのか。
原町および、原町高校という同窓を集約して背負っておられる先生の存在を前にして、ふとそんなことを考えた。