火葬場で
当時、原ノ町機関区の機関士だった門馬三郎さんは、乗務担当だったが「実際は鉄道連隊から来た人らが機関車を動かしたりしていた。私は駅まで行くのが大変だった。途中でブンブン飛行機が飛んでるので、かくれながら言ったからね。二上さんが病院へ運ばれる時にはいましたよ。「がんばれよ。がんばれよ」って、声をかけましてね」
私が知っているのは、遺体が機関区の講習室に置かれてたのを、火葬場まで戸板に乗せて焼きに行った時のことぐらいですよ。役場に行っても、火葬にしようにも係りの者が逃げてしまっていない。勝手に時分で焼けっていうわけで、しょうがないから薪だの油だのを持って行って焼きました。なかなか焼けなくてね。
ひどい状態でしたな。もちろん家族の人には言いませんでしたよ。お骨にして渡すのが役目ですからね。九月になって、竜泉寺で弔ってもらって、慰霊祭をやりました」
という。
前述の高橋マサイさんの談。
「本当に川に逃げ込んだ時には、もうこれで命の最後だと思いました」
「命からがらのことですからねえ。ふだんの消火訓練なんかしてたのが、おかしいくらいでした。バケツリレーなんかして、今日も訓練だなんて言って、よくやってたんですが、いざ空襲になったら、そんなひまはない。何の役にも立たないんですyp。バケツリレーで消せるような、そんなどころではなかった。みんな自分の命を守ることだけで精一杯でした。
鉄道診療所の裏の、先生の官舎も燃え出しましたが、誰も消しに行けなかった。出ていったら、たちまち殺されてしまうような状態なんですから、そのまま全焼してしまいました」
「十二日でしたか十三日でしたか、機関区の講習室に安置されていた遺体を、このままにしてはおけない。焼却しなければいけないって、焼き場へ遺体が運ばれました。福島の家から二人来て、私も一緒に焼き場に行きました。助役の小林安造さんだけは、先に焼いていたようでしたが、遺体が四つそこに置いてあるままでした」