「八月の空襲の時には、四〇機近くの艦載機が来た。いっぺんに、ではなく、十機ぐらいの編隊で分かれてやってくる。これはやられる、と思いました。小名浜方面から敵機侵入の連絡が来て、浪江上空あたりから機影が見えます。私と岡田さんという監視員の二人だけ残って、あとは下へ降ろしました。」
防空監視哨長林七郎さんは、当時のことをありありと語ってくれた。
ところが、飢え日残された私たち二人だけ降りられなくなってしまった。頭の上をブンブン敵機が飛んでますから、動いたら見つかって撃たれる、屋上ですから上からは丸見えです。コンクリートの蔭にへばりついて隠れてました。そのコンクリートも機関砲弾で粉砕された。油屋さんの建物にも機銃弾がずいぶん当たりましたよ。シャッターに穴が開いた。
攻撃は、工場とか飛行場なんかがまずやられて、爆弾を落とされた。
ですが、全部いっぺんに攻撃するんではなくて、五機か六機ぐらいでやります。残りの十機ぐらいは、渋佐の上空で待っているんです。四〇〇〇メートルぐらいの高度で、迎撃を警戒しているように見えます。
民家が相当やられてしまったあとで、ついでに遊び半分でやるわけです。無線塔なんかも、ゲームでもやってるような具合に狙う。
それに、民家の白い壁っていうのは、八〇〇メートル上空あたりからだと、とてもよく目立つ。それでやられたんではないか」
石神役場に出ていた屋代ツル代さんは、親が空襲で負傷したという連絡を受けて、急いで原町の宇津志病院へむかった。その道筋、いつも自分を狙って敵機が追いかけているように思った。途中、途中で川の土手のかげにかくれらりしながら町なかの病院へ急いだ。
父親は、信田沢で被弾した。
農作業の途中のことであった。
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