機関区事務所
事務所の脇にも防空壕があった。そこには杉沢区長をはじめ、井上留五郎助役らがいたが、以下は井上助役(当時四四歳)の回想。
「空襲になって、検査掛詰所の防空壕に私も行きかけたんですよ。入ろうと思ってね。ところが、もういっぱいだって手を振って合図するもんだから、引っ返して事務所の脇の防空壕に入ったんです。
堀川君が血だら真っ赤になって来たもんですわ。
「隊長! 検査掛やられました!」って言って、飛び込んできた。当時は区長を大隊長、助役を中隊長なんて呼んでましてね。芦口君も来たな、その次に。
それで行ってみた。ひどかった。手だの脚だの散らばっててね。誰のものだかわからない。ひどかったですよ」
この時、十六歳で機関助士だった鈴木一夫さんも、検査掛の防空壕へ駆けつけた一人である。
「一番最初にね、高橋直さんの両頬を井上留五郎さんが、両手でピタピタ叩いて、
「しっかりしろ高橋君。しっかりしろ」って言ったんです。あの時のことは、印象的でねえ、今でもはっきりおぼえてます」
だが、返事は、なかった。
「高平方面の上空からグラマンが急降下してきましてね。とにかくすごかった」
機関車誘導係の佐藤昇さんが残っていた天井がわりの枕木をもちあげて、とりのぞいた。
機関士鈴木重政さんの記憶びよれば、このほかに機関士小林三郎さん、助士高原博さん、指導員林武雄さん、同門馬徳太さんらが救助にあたった。
「高橋君の体が腰から上だけ出ていた。まるで眠っているように、おだやかな表情でした。
ともかく引き上げようと思って、脇の下に手をかけると、胸のあばら骨の感触がなかった。
そしたら土の中から、呻き声が聞こえてきたので「生きてるぞ、掘り出せ!」となった。スコップで掘るわけにはいかない。手で土をかきだした。」と林武雄さん。
土の中から、衣服の一部が出てきた。尻の部分だと思って今度は頭のある部分と思われるあたりを掘ってみた。
「下の方から掘れ!」
そこへ、若い駅員志賀一雄さんが飛んできた。志賀一雄さんは駅に就職したばかりの時であった。父親の志賀照雄さんが機関区の検査掛であったので、心配してかけつけたのだ。
「大丈夫でしょうか」
地上に出ていた衣服の一部は衿の部分であった。その襟をつかんで、力いっぱい引き上げた。
志賀さんは、それが父親の背中だと思った。父の姿に似ていた。
林さんは続ける。
「それが兼次さんだった。大丈夫か。がんばれ、と声をかけると、ああ、がんばる、と答えた。生きてましたよ。どこも何ともなかった、その時は。それですぐに担架に乗せて、機関助士と一緒に渡辺病院へ運んだ。
右にしてくれ、と言ってました。左の肋骨がやられてたんだな。
十一時四十分でしたか。亡くなられたのは。
それから戻ってみると、遺体は機関区事務所の方の研究室(講習室)に並べられていた。家族に連絡するために、門馬徳太君と木幡忠助君の二人が、志賀(照雄)さんの所から、順に知らせに出かけた。
それから私は、遺体を守って研究室に残りました。門馬君と、この役を交換だったら良かったと思った。また空襲になったから」
今度は自分がやられる番だな、と覚悟した。機関区構内では、機関車が集中的に狙われた。それと、退避する暇もなく、構内に停まっていた機関車が狙い撃ちにされた。また隣接する帝金工場への爆弾が、土砂と破片を機関区にまで吹き飛ばして脅かした。
「高平の上空から十五、六機編隊でやってきたが、入道雲が出て雨になったので、それっきり敵機は引き返していった」
小林三郎さん(当時機関士)はこう語る。
八月九日は非番。十日が出番だった。庫内手たちの仕事は、カマ磨きである。
鉄の馬とも言うべき黒金の機関車は、その休息場である機関庫で、ぴかぴかに磨き上げられる。あの色艶は、庫内手たちの精進のたまものである。
小林さんの役職は、これら庫内手たちの監督であった。出勤して、その朝、休養室にいた。サイレンが鳴った。
「休養室の脇にあった防空壕に入った。休養室は風呂場の一緒の棟で、検査掛詰所の西側にあってね。そこに入った。
芦口さんが、血を流してやってきた。こめかみあたりから、血がぽたぽた落ちているんで、急いで渡辺病院へ連れてゆきました。
それから、また戻った。」
芦口壽郎さんは、こうして助かった。
小林三郎さんは言う。
「戻ってみると、今まで入っていた防空壕の上に、建物が倒れていた。また空襲になって今度は技工たちの入る防空壕に入った。ずいぶん長かったような気がする。そのうちまっくらになり、ゴロゴロっていう、凄い雷が鳴りだして、どしゃぶりの雨になった。それっきり空襲はおわった」