菅野先生自身の空襲経験を書かしめることになった最初のきっかけは、こうだ。自身が「昭和五十年春、大甕小学校は、百年祭を祝ったばかりの古い木造校舎から鉄筋コンクリート造り三階建ての新校舎になりました。そして古くなって危険校舎になっていた旧校舎は業者に買い取られて次々に分解されていきました。
クレーン車で吊り上げられ、イヤダイヤダと叫ぶようにギーギーときしみながら校舎からはがされていく柱や骨組み、五年間の思い出のにじんだ教室も、光るまでみがいた窓も、床もこわされていく……こうして一日一日とあわれな姿になってゆく校舎をながめながらみんなさびしがったことを思い出すことでしょう。
 数日後、旧校舎の後かたずけをしているとき、
「菅野先生、菅野先生、ちょっと来て」
と私を呼ぶ教頭先生の大きな声がしました。
 なんだろうと思って行ってみると、二個の銃弾だったのです。
 「これ、機関銃の弾丸(たま)じゃないの。ここで見つけたの」
 私はびっくりして二人に聞きました。この銃弾が、ここから発見されたということは、この学校が三十年前に銃撃されたということなのです。
 当時は工場一つなかったのどかな純農村にあったこの小学校がアメリカ軍の飛行機から銃撃を受けていたなどとは、今の今まで思ってもいなかったのです。新緑にかこまれた校舎で遊ぶ子どもたちの明るい声。はるか遠くまで広がる緑の稲田。輝く青空。六号国道をひっきりなしに透自動車の音。今の大甕は、どこを見ても平和そのものです。この学校の上空を飴エリカ軍の飛行機が飛び、校舎を銃撃したのです。
 私は深い感動をおぼえながら銃弾を手にとって、何か大事な物を見るようにまじまじとながめました。
 直径が一センチ、長さが六センチぐらいの弾丸は、一個の先が尖っているだけで、さびもなく、三十年も放っておかれた物とは思えないほどのものでした。たぶん銃弾は、戦争中から壁の中にささったままになっていて、それが今度の校舎の取り壊しで壁がくずれると一緒に、三十年ぶりに外に出てきたものなのでしょう。
 ずっしりと重い二個の銃弾を手にしているうちに、私は何だか、この弾丸は、古校舎が、わざと私たちの目につくように、そこに置いていったもののような気がしてきました。
 「海風」大ミカ小6年通信

 この時の銃弾は、学校の歴史を物語る貴重な記念品として校長室に飾ってある。
 七月九日、大甕小学校の校長室を訪問し、この銃弾を見せていただいた。
  それは大小三個の椎の実型の、戦争が昔話ではなく、歴然たる現実であることをものがたる証拠である。
 小学校の校舎に撃ち込まれた空襲の銃弾。それは、ほかの何よりもまして重要な平和教育のための素材である。

写真:1982年に「原町空襲の記録」を出版した。個人で40万円の出費は、趣味の領域である。700部。ライト印刷。
 奥付の写真の銃弾は、大甕小学校の校長室の6個のグラマンの銃弾と、無線塔解体を終えて、コンクリートにめりこんでいた銃弾を、記念に持っている工務店勤務の鳶職人から借りて、ダイエーカツミヤ店の催事場で特別展示したときの撮影である。

追記
2019年5月14日、佐藤邦雄先生を訪ねて菅野清二先生の訃報を話題にしたら、告別式では弔辞を読んだという。
この大甕小にも勤務したことがあり、古い校舎の解体のときにも、現場に立ち会っていたという。
艦載機の銃弾が刺さっていたという旧校舎の瓦礫にまじって、小さな種が落ちていた。若い職員どおしで「これは何の種かしら」と現場で語り合っている場面に遭遇し、自分でも手に取ってみたら「ひまし油をつくるためのヒマの種でした」と邦雄氏は語った。
当時、松の根を掘り起こして松根油を採取していた。ひまし油の原料とするために、福島の第72師団の地方部隊の命令によって、学校や公共の土地では、一面に蒔かれていた、その痕跡であった。(2019.7.16)

 
 

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