松川浦周辺の戦禍 1・2鈴木イチ子 3.4金丸芳子
エピソード1 折れた松の木
短期決戦か長期化か。空爆続行か地上戦闘開始かと湾岸戦争が取りざたされているなか、空爆による悲惨な小どもの様子が放映された。
戦争という巨大な狂乱の中では、日に日に犠牲者が増し反戦の声もむなしく戦争拡大のへと動いていく。
第二次世界大戦の折、この小都市相馬市も、米空軍の爆撃と機銃掃射を受けた。
忘れもしない昭和二十年八月九日、日に何度も空襲警報が出され、鉄器の襲来を注げたが、それまで戦争の悲惨な現場をみたことのない私達は、大したことはないとたかをくくっていた。しかし、警報通り敵機がきたらしく、突然バラバラという連続音が響いた。私達はあわてて近くの防空壕に避難した。機銃掃射の音がしばらく続き、やがてやんだ。おそるおそる外へ出た時には敵機の姿はなく、あちこちの地上に焦げ茶色の先の尖った機関砲の弾が散乱していた。長さ十五センチ、直径三センチぐらいの弾である。幸い死んだ人はいなかったが、人々の顔は恐怖にひきつり言葉もなかった。この弾が当っていたら・・・・そう思うと震えがとまらなくなった。
母は、家族の安否を気づかい、私達兄弟の名を呼んで無事を確かめた。敵機はそのあともきた。バラバラという不気味な機銃掃射の音が続いた。
私の家の防空壕は二メートル程の高さのちょっとした崖のような場所に横穴を掘ってあったが、これでは危ないと、隙をみて畳を剝ぎ入り口に三、四枚立てかけて防御した。何回かの銃撃のあと敵機は去ったが、その日の夕方、いろいろな情報が流れた。
「ホッキ舟が狙われた」とか「漁師が一人亡くなった」とか、恐ろしさのあまり眠れぬまま八月十日を迎えた。
その朝、カジメの沢山入ったおかゆの朝ごはんを急いで食べ終えた時、母は「きょうもアメリカの飛行機がくると危ないから笠岩の隧道に入っているように」と私に言い、幼い妹二人を連れていくことを指示した。昨日の恐怖からまだ覚めぬまま、家から数メートル程の隧道へ行った。
今は相馬開発のため、当時の思い出につながるものは何ひとつなく、遠い記憶の糸も細く途切れてつなぐことが難しい状態であるが、直撃暖を受けた恐さだけは、はっきりと蘇ってくる。
その隧道は、今の丸仙旅館の北側にあり、原釜の浜から尾浜地区へぬける近道として地区住民が利用していた。大人がゆうにたって歩ける高さがあり一間幅ぐらいのものであった。
その上には防風林の松の木がひと抱え程に成長し、笠岩に続いていたし、安波様という海の守り神が浅い洞窟の中に祭られていた。
太平洋の波は、戦争の巨大な渦も、人々の困窮この上ない生活も知らず、遠浅の浜辺に静かに寄せては返していた。
隧道の中には押さない小ども、年寄り、それを世話する者とで、二十人位はいたろう。おだやかな時間が流れ、幼い子たちが飽きてきた頃、突然「飛行機だ」と誰かが大声で叫んだ。その瞬間「どーん、バリバリ」と轟音がとどろいた。爆風にあおられ砂が嵐のように入ってきて何も見えず、「徳子、幸子」と妹二人の名を呼びつつ触れた手をつかむと地面にしゃがみこんだ。砂がたちこめ息がつけない。続けてもう一発。砂が反対の入り口からもうもうと入ってくる。呼吸が苦しい。口がざらざらする。声が出ない。「もう死ぬ」と思った。
砂嵐が収まって見回すと、私がにぎっていたのは他人の手で、妹二人は少し離れた所で泣いていた。駆け寄って二人を抱きしめた私は、一緒に声をあげて泣いた。恐怖のためか生きていた嬉しさで泣いたのか分からなかった。
人々は、お互いの無事を喜んだが、どの人も顔面蒼白で、全身砂にまみれていた。
「もう大丈夫だ」という老人の声に、私も妹の手を握り外へ出て、腰が抜ける程驚いた。隧道の真上にあった防風林の太い松の木が一本根本からささくれたって折れ、そのわきに三坪ぐらいのえぐられた穴ができ、地上の草はひとかけらもなかった。改めて足がわなわなと震えぼう然と立ちつくした私達は、この太い松の木が命を救ってくれたのだと思った。
その夜、部落の人たちは、原釜にいては危険だという判断から、縁故を求めて、山寄りの家に疎開することになり、荷物をまとめ荷車につみ、小野部落の斉藤片へいくように言った。知らない家にいく不安もきき入れられ暗くなるのを待って妹二人をのせ、親戚の人と出かけた。真っ暗い夜道にがらがらと荷車の音だけが響いた。
まったく知らない家の土蔵を借り、母の叔母にあたる人とその家族と住み、私はそこから相馬女学校内に特設された訓導養成所へ歩いて通った。終戦の玉音放送。家へ帰れる嬉しさと闘いに敗れた口惜しさの入り混じった涙が流れた。講堂に集合していた私達は声をあげて泣いた。
東京大空襲の死者十万人。それにもまさる広島、長崎の原爆投下による悲運と悲惨。戦場に散った多くの兵士。戦争は、二度とすべきではない。
2 スマートな福島丸
松川のドックに白いスマートな舟が一隻碇泊していた。その船の名は福島丸。昭和八年進水約四十トン、百八十馬力のデイーゼル機関。答辞にしては真っ白でスマート。船腹に黒く太い文字で「福島丸」と書いてあった。「憧れのハワイ航路」にでも行きそうな船で、水上派出所の部長他五人の乗組員が、沿岸一帯の密漁船の監視に当っていた。
父が機関士として乗船し、兄も一時乗組員として勤務したことがある。それを私はとても誇りに思っていた。その福島丸も、第二次世界大戦が激しさを増した昭和十九年に、海軍の徴用船として、軍の任務についたが、八月十日の空襲で爆撃され、間もなく福島丸は松川のドックから姿を消し、父は職を失ってしまった。
3 福島丸撃沈と我が家
二十年頃の松川地区は、水産業、漁業、海苔牡蠣の養殖、水産加工の従事者が多く、旅館などは一軒もなかった。
国土防衛隊の四十数名が漁業下位に駐屯し、各漁船に乗り込み、漁労に従事していた。
また、第十二航空教育隊の十数名が、民家に宿泊。食糧自給の名目で塩取りをしていた。港には漁船に交じって福島丸が白い船体をみせ漁業会に続いて赤瓦屋根の長い水揚場、そして兵隊の影が見え隠れしていた。
水産加工をしていた私の家では、鯖の燻製なども造っており、警報発令の度に火を消して作業を中断、防空壕に非難したのでよい製品ができなかった。八月十日の空襲前までの物質的な被害はこの程度の些少なものだった。
十日、私は松川浦南西対岸にある飯豊国民学校にいた。
洋崖を低く飛ぶ敵機。岩山を隔てて様子は解らないが松川浦周辺が襲撃されているらしかった。警報が解除され、帰宅しようとすると、「帰ったって、家なんかない」という話を先輩から聞かされ、半信半疑、焦りながらペダルを踏んで帰った。約十キロの道のりである。あった! 私の家も、まわりの家も。だが、魚市場の屋根がぶち抜かれ、水揚場のコンクリートもえぐられていた。25トンの爆弾が投下されたという話で道路にも穴が開いていた。
福島丸は港に繋留されたまま、船尾から半分沈み、黒焦げの残骸をさらしていた。
私の家は直撃は免れたが、機銃掃射を浴びた。家族は岩山に造られた大きな防空壕に避難して全員無事だった。
一階の店は東京から疎開してきた床屋さんに貸していた。臨月だった奥さんは逃げずに裏の部屋で鏡を被って蹲っていたというが、大鏡が割れたのに、奇蹟的にかすり傷ひとつ追わなかった。
二階もガラス窓がメチャクチャ。柱はさけ、壁をぶち抜いた弾が、加工場の梁の上に並べてあった竹の束を貫き、地面に置いた鉄管に当り折れ曲がって止まった。たんすさえ弾が通り抜けていた。特筆すべきは次の話である。
一兵士の死
「きょう、近くの山に待避していた国土防衛隊の兵隊さんが、二の腕を貫通され、うちのぼ防空壕に担ぎ込まれたが、手当てもままならず、トラックで町の病院に運ばれる途中、出血多量で亡くなった。壕の中で「殺してくれー」とうめいていた声が耳に残り、姿が目に焼きついている」
この日を境にして、母は祖母をリヤカーに乗せ弟妹達と鹿島町の田舎の遠い親戚に疎開した。父と私と上の弟が残り、防空壕で生活した。
民家に宿泊していた下士官の回想談。
「艦載機グラマンが磯部方面から超低空飛行でやって来て、港の角の民家に機銃掃射を浴びせ上昇して北西で旋回、後ろから急降下し撃ってきた。福島丸は爆弾を投下され、黒煙を上げ傾いて沈んだ。またある日、丘の上から沖の方を見ると、漁船が(ホッキ舟も)狙われ、ポッポッポッと列をなして水柱が上がっていた。」
この時漁師ひとり犠牲になったと聞いている。
また先輩は、「空襲警報発令と共に学校へ向かった。この時、西の空に機影が見えた。田圃道を走って走って辛うじて柳の木の下に身をひそめていた。超低空飛行でやってきてはダダダダダーと機銃掃射。旋回してきては狙われ、生きた心地がしなかった。近くの田圃で、耳の遠いおじいさんが田の三番草取りをしていた。どちらが標的になったのか分からないが命は助かった」と機銃掃射の恐怖を語っている。
どんな危険があろうと、空襲警報の時は職員出勤の勤務体制だった。
北原釜に隣接する今神地区(現新地町、火発建設地)に昭和十七年頃から相馬塩業株式会社があり、製塩をしていた。塩田十一町歩を含む広大な敷地に作業現場があり、高い煙突が立っていた。飯場も数棟あった。
「日本人と朝鮮人合わせて二百人位働いていた。五月頃一度空襲があったが、このときは建物が壊されただけだった」(地元の人の話)
「昭和二十年八月十二日午前七時頃、富岡沖から飛び立ったグラマン機により、相馬塩業の作業現場小屋が爆撃され、二十七名の死者をだす。製塩業は、発足三ヵ年で廃業となる。」(相馬郡新地町史)