61 戦時下の子供たち

「高学年の児童は、大原、大谷の梨畑や原野の開墾、山林の枝抜き、中山の開墾、松根掘り、水田の除草、稲刈り等を行ない校庭の周囲にも甘藷を植し各部落の通学路の両側に大豆等も栽培させ食糧生産拡充の協力をさせた。戦地にも慰問文を発送し、入営兵士を送る際にも日の丸をふり軍歌等も歌わせ、正に学校生活は軍国調一色であった。戦況が悪化すると共に、学校にもその影響がおよび正規の授業にも支障が目立ちはじめた。西校舎で養蚕を行ない全職員で落下傘の糸作りをしたり、学校の一部も軍隊の宿舎と化し原町の飛行場警備の経理部にもなり軍事物資の置場にもなった。戦況が益々悪化すると共に本土空襲もはげしさを加え、学校周辺に防空壕を作り避難させたこと等、幾多の思い出は尽きない。」(「石一小在職中の回想」門馬道仲氏による)

61B 奉安殿と御真影

明治百年福島県教育回顧録等によれば、昭和二十年の空襲下の校長たちの第一の心配は一様に「御真影」をどうやって守るか、ということであった。
御真影とは、我が国の国家元首であったところの天皇陛下の肖像写真である。これと教育勅語とは、戦前の日本の教育界では神器のごとき存在であった。
教育勅語にいう、忠と孝との儒教的道徳はつまるところ、いざという時は(国家の家父長である天皇に)命を捧げよ、という臣民教育であって、実際に二百万を超える国民がこの教育のために殉じた。
「原町小学校被害報告」の被害状況の冒頭に、御真影の疎外について記されている。すなわち、「御真影並に御勅語御安泰御真影並に勅語謄本は奉安殿に被害全然なかりしため御安泰なり、然しながら其の後の空襲を慮り十日午後七時警察官護衛のもとに石神村第一国民学校奉安所に御奉遷申上げ同校長に奉護方を依頼す」というものだった。
相馬農業学校ではどうであったか。前後するが、八月九日の門馬太氏の二機億を詳しく書いていただいた。
「午前八時。私は雲雀ケ原報国農場に向うべく、玄関前にいた。今野清助教諭は御真影奉護係で、四巾の黒木綿大風呂敷に御真影と教育勅語を包み、これを背にして私と並んでいた。空襲警報のサイレンが鳴り響いた。と同時に飛行場と原紡に爆発音と機関砲の掃射音がきこえた。空襲だっ、と叫ぶなり二人は校舎西の防空壕を目がけて飛び出した。夜ノ森公園の西側を、南北に通ずる排水溝であるが、当時は土を掘り上げただけのものだったので、溝の土手に多くの防空壕が掘られていた。そこへ行くべく走ったのであるが、南をみると敵機は超低空で機関砲を掃射しながら、学校目がけてやってくる。とても防空壕まで行けそうにない。動いたら狙い撃ちされると思ったので、講堂の南の畑の側に身を伏せた。敵機は公園の西の道路の上を真っすぐやってくる。弾丸が当って煙が上る。アッという間に、機は頭上を過ぎる。やれやれ助かった。思わずため息が出た。」
その後、御真影と教育勅語を保管するための奉安殿は。敗戦の翌日あっけなく姿を消していた。こんなものがあったのでは、占領軍に見つかったら大変だというので。たちまち撤去されたのだ。

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