悲劇の機関庫

原ノ町駅で空襲を体験した林武雄さんは大正二年生まれの国鉄OBの一人。
「十日の空襲はすごかった。朝から空襲があって、みな防空壕に避難したが、被害者が出たという連絡が飛び込んできた。昔、転車台というのがあった近く、今の検査掛詰所の角かたりに防空壕があった。それが爆風でやられて、潰されていた。
「壕の両側にいた人が助かったんですよ。真ん中にいた人たちがやられた。高橋直さんの体が半分出ていたのでみんなで運び出そうとしたら、その下からうめき声が聞こえる。遺体より怪我人が先だとなって運び出してみると、しれが兼次さんだった。みんなで担架に乗せて病院まで送ったんですがダメでした。
「それから機関区へ戻ると、まだ空襲が続いている。機関車は蒸気を噴いたままやられてしまっていた。機関区の構内に縛g器で穴だらけ。オーバーブリッジの上までレールが曲がってのけぞっていた。艦載機は、御本陣山の方から編隊で急降下して攻撃してくる。その次に高平の山の上で反転して無線塔の上の方から攻撃して西の方へ。そこからまた繰り返しの攻撃になる。三角形を描くように、しかも低空でごく近くまで降りてくるもんだから、竿で叩けば届きそうなほど」
「あの時のことになると、話はついつい夜中の二時三時まで続いてしまう。生き残りの仲間と会うと、必ずあの話になるんです」
当時、空襲の現場へ急いで救護にあたった渡辺伸氏は、昭和四十六年夏、戦没者慰霊祭で次のように述べている。
「当時私は原町消防救護班長で、佐藤惇先生が副班長でありました。忘れもしません。昭和二十年八月十日の原町空襲時の大災害は原町機関庫でありました。電話により直ちに佐藤先生と共に自転車で救護にかけつけたのでありますが、小林安造さん(当時四十六歳)以下僅か十六歳の少年新妻さんまで六名もの方々が、救護どころでなく直撃弾による即死であり、殆どが頭部の致命傷という大悲劇でありました。
(注。直撃弾ではなく、爆風による)
何の罪科もない人々が職域奉公の念に燃え各職場に従事中、あまりにも不運、あまりにの御気の毒、楽劇器による直撃弾を受けたからであります。出勤前、誰れがこのような惨憺たる姿になるのを想像したでしょうか。激しい怒りを覚えると共にくやし涙にくれたのでした」
八月十日の空襲により原ノ町機関区構内の防空壕で物故されたのは、次の六名である。
小林安造 助役
二上兼次 検査掛
志賀照雄 同
酒本幸蔵 同
高橋 直 同
新妻嘉博 技工

昭和二十一年十月十五日発行の「鉄道殉職霊記」(同顕彰会発行)には、仙台鉄道管理局の管理する地区の殉職者名が並んでいるがその中の、昭和二十年八月十日の部分は、東北大空襲で殉職した人々に名前で埋められている。
数頁前には七月十日の仙台空襲で殉職した女性駅手の名もあった。
原ノ町駅 泉田照子
〃   横山ノブ
〃   末永 圓
磐城太田駅 武内ミサ子
彼女たちもまた、悲運の犠牲者であった。

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