八月九日、二度目の原町空襲があった。小林安造さんは当時四十五歳。原ノ町機関区の助役であった。長男の文雄氏は、旧制中学生で中村(相馬)へ通学していたが、ちょうどウルシにまけて包帯をぐるぐる巻きにしt官舎の自宅にいた。
三日前、無死の知らせというのだろうか、小林さんは原町町内にいた家族を、岩城太田へ疎開させていた。夫人と五人の子供がいた。そのうちの文雄氏だけが父と一緒であった。文雄氏は九日の空襲を体験した。
小林安造氏夫人トクさんは、その日のことを次のように回顧する。
「息子は九日の夕方頃、おっかなくて町にはいられない、と言って磐城太田の疎開先の今まで線路を歩いてやってきました」
「次の日の(十日の)朝早く、主人が来ました」
「あの頃(の季節)は、朝が早いですからたいそう早い時刻でした。文雄が疎開したのでは蚊帳は要らないから、と言って蚊帳等を運んで持ってきてくれました」
「私はすぐに御飯の支度をしました。主人は急いで食べますと、みんなに黙ってきたからすぐに帰る、と申します」
きのうは泊りだったのだから今日はゆっくりして行けるでしょ、と言いますと、
いや、すぐ帰らなければならない、と言って、またあの遠いところを線路沿いに百戸ttゆきました。おにぎりを持たせてやりました。戻るときに何度も何度も私に言うんです。
今日あたり、また(敵機が)来るかも市r内から、子供を絶対に外に出すな、外にいてはいけない、って。
それで原ノ町の機関区の方へ歩いてゆきました。あの距離ですから、ずいぶんと時間がかかります。
文雄はきのう病院に言ってないので、体がかゆくて仕様がない、と言う。やっぱり原町まで言ってみる、と言います。なんだ、それならお父さんと一緒に行けば良かったのに、なんて言いました。息子の言うには、だtt行くって言ったらだめだって言われるにきまってる、って。
それで急いでゲートルを巻いて出かける準備をして線路の上を原町に向かいました。
主人が機関区に着いたと思われる頃、息子が半分位まで行った頃かなと思った頃に、(敵機が)やって来ました」
文雄さんは行程のなかばにいた。
身を隠して敵機からのがれていたら、のどが乾いてきた。
北原の若林さん(当時の機関士)の家へ寄って水を飲んだ。イモを分けてもらって食べたという。
機関区方面から逃げて来る人たちの口から、やられたのは小林安造さんらしい、という噂を聞いた。
確かめるすべもなく、そこから引き返して来た。とても近づける状態ではない。
夕方頃、文雄さんは母トクさんの元へ帰ってきた。
トクさんは機関区へかけつけたかった。が、幼い子供たちのことが心配で身動きできない。機関区につとめている伯父が、
「お前は心配するな。俺が身代りに様子を見てきてやるから」
と言ってくれた。
安否を気遣いながら、その日は暮れていった。
伯父は原ノ阿智機関区へ向かった。
もちろん汽車は昨日からストップしたままだ。
翌朝、夜が明けた頃、伯父さんが戻って来た。
「やっぱり、そうだったよ」
原ノ町機関区の空襲被害における死亡者のなかの一人は、やはり小林安造さんであった。
「遺体を引き取ってもいい、と言われたが俺一人だけだし、今日はこのまま帰ってきた」
それから幼い子供をかかえた夫人の、新たな生活の戦いが始まった。
疎開先の人が、よくしてくれた。その日は、やおら防空壕を掘らねばというので、地面を掘りだしたところであった。
夫人の姉妹が、疎開先の高ノ倉から磐城太田まで見舞いに訪ねてきてくれた。
嬉しかった。
自分ひとりきりと思っていたところへ、何と力強い励みになったことだろう。
それから荷物をそれぞれに分担して持ち、子供たちも自分の荷を持った。歩いて高ノ倉まで再疎開した。
何もかもが夢中であった。
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