今田芳正(大甕小5年生・昭和47年当時)はアリューシャンでの祖父の戦争体験を聞き書きした次のさりげない一行に、わたしは驚いた。
ある時、てきのたまで、前の家の人が二人死にました。
萱浜にも、空襲による物故者があったのか。知らなかった。
おばあさんの実家は北萱浜で、そのうちの中に入ったら、たんすの中やあちこちにてっぽうの玉が入っていたそうです。
このことについては、別な児童も言及している。
木幡敦子(同)
私の家では、おじいさんが戦争に行き云々。続いて、こうあった。
空襲の時は、私の家のすぐそばの木幡さんの家では四歳の男の子の大人の人が家の中でたまにあたり死んでしまったそうです。戦争には何の関係もないたった四歳の子が殺されるなんて空襲とは何ておそろしいのだろうと思いました。
この年の秋、原町飛行場関係戦没者慰霊祭が行われて、私は「原町空襲の記録」を出版して、この4歳の幼児と、27歳の叔父にあたる父親の弟の空襲死の実態に詳述した本を献呈したが、慰霊祭の関係者は、何の興味も持たなかった。
この慰霊祭に集まる町の関係者は裕福層の人々で、飛行場で訓練する陸軍航空将校たちは町で下宿し、町の比較的上流階級との交流があった。
その花形が、特攻兵である。原町で訓練した士官学校の卒業生たちは、やがて特攻隊の隊長クラスとして昭和19年以降にはフィリピンや沖縄に次々に投入されていった。
そこに整備の軍属も、いないはずはなかったのだが、あくまで士官学校を卒業した二十歳前後のエリート・パイロットに限られていた。町の空襲犠牲者も銘板に刻まれていたが、上記の地元の農家の二人の青年と幼児の名前は知られていない。
そうした「慰霊祭」の実態に、驚いた。
それから何度も、地元の犠牲者の欠落について指摘してきたのだが、あくまで「慰霊祭」は、国家のために命を捧げた勲章と遺族年金つきの、むしろ恵まれた回想の思い出を睦みあう「戦友会」のようなものというのが実態だった。
特攻隊の訓練のために原町にやってきた八牧通泰氏と、その夫人になった美喜子さん夫妻が事務局となって、2年前まで慰霊祭が開催されてきたが、美喜子さんが亡くなって、慰霊祭は終了した。
哀しいことだが、この原町飛行場の関係戦没者慰霊碑に、北会は真野農家の二人の名前は、いまだに刻まれていない。
あの二人の身内の幼児の父親から、くわしく犠牲のようすを聞き書きした事件は、原町に陸軍飛行場が誘致されたための、とばっちりであった。
まるで沖縄で、いまだに米兵の交通事故加害も、レイプも、同じように占領後の原町でもあったのだ。戦争末期の被害は、まさに「航空基地」があったがためであった。