原町紡織工場で
宝玉トシ子さんは原町国民学校高等科を卒業したのが昭和十八年。卒業してすぐ原町紡織工場で働いた。十六歳だった。
その朝五時に起きて、五時半から食事が始まった。五時半に食堂のチャイムが鳴る。早番は六時から始業するからだ。仕事は夕方五時まで。残業で七時二なることも多かった。
その朝は、食事をたべようとしたら、警報が鳴った。
だが、以前二月に空襲されて犠牲者が出たけれども、サイレンは毎日鳴っている。どうせまたサイレンだけだろうとたかをくくっていた。ところが警戒警報はすぐ空襲警報に変わった。朝食を半端でやめて、裏山まで退避した。
昼どきになり、友達の菅頭さんという人と、昼食を食べに戻った。食べかけたところで、すぐまた敵機が来た。
だが、何としても惜しいと思った。そこでドンブリに汁をかけて、それを持ったまま外に出た。
バリバリバリっと機銃の音。
あわててドンぶりを放りだして、側溝に飛び込んだ。すきをみて防空壕へ移ったが、水がたまっていたので、すっかり腰まで濡れてしまった。
家に帰ろうと思った。こんな状態では工場に残っていたら本当に命が危うい。
寮へ行って部屋に入ろうと思うのだが、爆風ですっかり建物が傾いているらしく、戸が開かない。ようやくのことで救急箱と着替えを持ち出すことができた。
軍用道路を渡って、太田の自宅へ向かった。近くに大きなヒバの木があり、そこに頭を突っ込んで尻だけ出している数人を見た。
これから一体どうなるのだろう。やっとの思いで家までたどりついた時の父の喜びよう。無事でよかった。何よりだった。その父の顔が印象にのこっている。
当時原紡の社宅に住んでいた 志摩半千恵子さんは、次のように語っている。
「とにかく工場はめちゃめちゃに壊されていました。燃え上がっても、飛行機が怖くて消すわけにいかない。みんな逃げてしまった。工場を守る者がいなくなっちゃったんですね。
紡織工場が燃えだして、最期まで燃え尽きるまで待っているほかない。ぞの熱で空襲が終わったあとから、別な場所が発火した」
午後五時頃に至って原町紡織工場から猛火があがった。黒煙が、もくもくと天にのぼった。しかし消火に駆け付けた人たちも手の施しようがなく、ただ呆然と眺めるほかなかった。
大正年間に創業以来、高い煙突から煙を吐く工場らしい工場は、この原町紡織工場ぐらいのものであり、人口も少なく他に産業もない小さな町にとっては、唯一最大の労働の場であった。
戦時中は軍需工場として厚く庇護され、大半の町民が何らかのかかわりを持っている。社員や工員をはじめ、勤労動員された十三歳以上の学徒および女子挺身隊員たち。彼らの青春の時間と体力を、いわばたまげん極限まで吸い取った「国家」の姿の片鱗が、この工場にあった。
翌日午前中の、数度の空襲によって、原町紡織工場は再び猛火と黒煙をあげて燃え上がった。
約二万五千坪の敷地に、巨大な工場棟を並べて「軍需物資」を生産加工してきたこの工場の、燃料・原料・油・その他の可燃物すべてが燃え尽きるまで火は鎮まなかった。だが、それらは単に「物体」の炎上だけであったのだろうか。
そこで生活し、家族を養ってきた社員・労働者の悲喜こもごもや、そこで絶命した空襲被害者の無念や、動員された若者あるいは少年少女の汗や涙をまで、その炎はなめつくしてむなしく焼いた。
火は七日七晩燃え続けた、という。
あとに残ったのは、正面脇の事務所と、レンガ造りのノコギリ型の工場外壁ばかりであった。
すべてが灰燼に帰した。