原町空襲と原女生
松崎・旧姓大島節子
敗戦のムードが濃厚に漂い始めた昭和二十年の初夏の夕方、突如として海の方から「どーんどーん」と音が響いて来ました。当時私の亡父は、警防団長をしておりましたので、「艦砲射撃らしい」というニュースが意外と早く入って来ました。
一瞬のうちに町全体が騒がしくなり、夜の町はリヤカーや荷車に家族と衣類、食糧を積み、石神方面の山奥に避難して行く人々の移動で、ごった返しの有様でした。
一夜明けた町内は、どの家も雨戸を閉めたままの状態でひっそりしており、道路はひどく乾燥して、あちらこちらに貴重な米が落ちこぼれ、慌てて避難した様子が歴然としておりました。
その夜、町民達の恐怖と不安をよそに、飛行場関係の将校達が、町民よりもいち早くトラックで避難した、という噂が立ち、これではもう勝利は望めないと痛感しました。
当時学生は「花も蕾の若桜 紅の血は燃ゆる」とか「清く正しい大和なでしこ」とか、「勝利の日迄」の御題目で、学徒動員に参加させられ、私の勤務校「原女」も例外ではなく、原町紡織工場と、郡山日東紡富久山工場に動員されておりました。
上級生は原紡、下級生は郡山日東紡、その下一、二年生は勤労奉仕で農家の手伝いや、飛行場のカモフラージュのための芝植え作業等々で、学校に登校してからの作業でした。
あれは原町空襲のあった日の出来事でしたが、警戒警報が鳴ったので、在校中の生徒達は防空壕に避難させ、私はまた仙台方面行きのグラマン編隊機だろうとタカをくくって職員室で本を読んでおりました。
突然、バリバリ、ドーンという音に驚いて外に飛び出し、防空壕めがけて走りました。地上の動く物は飛行機からよく見えるのだそうで、上空を旋回していたグラマンが走る私を狙い撃ちして来ました。慌てて近くの防空壕に飛び込んだ瞬間、校庭にロケット弾が炸裂し、爆風で壕の出入り口がふさがり、中の生徒達は恐ろしさと不安で騒ぎ出し、水の溜まった壕の中で生きた心地がしませんでした。
やっと静かになったので、皆で力を合わせて土を掘り外に這いずり出ると、校庭にはロケット砲の弾丸の大きな穴があちらこちらにあき、桜の木に繋がれていた牛が、流れ弾に当たって死んでいました。私の身代わりになったのでしょうか。
校内に入ってみると二階の和裁室の廊下に並べてあったミシン、壁、羽目板は穴だらけでしたが、生徒が全員無事だったのがせめてもの救いでした。
何故学校が狙われたのか不審に思いましたが、原紡に動員されていた生徒達で汽車通とか遠距離の生徒達が、学校の和裁室に宿泊しれおりましたので、洗濯物が目標になったらしいと言うことでした。
その頃学校の講堂には一部の職業軍人と民間人で飛行場の仕事をしていた人達が宿泊しており、私達教師は何となく落ち着かない毎日でした。
校長室では事故のない様にと話し合いが続き、たまたまS先生が心配のあまり「猫に鰹節」という表現で、先生方全員で注意しましょうという事になりましたが、事務室にいた電話当番兵がこの一言を聞き、上官に報告したらしく、ちょうどS先生と私が宿直の夜、S先生を裏門に呼び出し、無抵抗のS先生に殴る蹴るの暴力を振るい、大きな声で騒ぐので、生徒達に見せたくない、聞かせたくないので一苦労しました。でも生徒達は二階で見ていた様でした。
教師が生徒のことを心配するのは当然の子とで、言葉尻をとらえて暴力を振るった兵隊達にすごく腹が立ったけれど、当時は軍人の思うがままで、何かと言うと「非国民」の一言で片付けられ、何も言えなかった事がとても情けなかったとよく覚えています。
昭和17年から原町女学校教師
「学徒動員から四十年」より 昭和60年p122
注。 昭和二十年の初夏の夕方…浪江町におけるアメリカ海軍の潜水艦による、日本の木造船への砲撃。7月20日の事件。
原町女学校の講堂に寄宿していたのは郷土部隊と呼ばれる第72師団(傳部隊)であろう。原町郊外に設営された陸軍飛行場の機能に係わる警備、輜重、営繕などの軍務を外部から支援する権能を持って、膨大な人員が配置されていて、町内の学校校舎のほとんどに兵隊が常駐していた。
「猫に鰹節」の意味は、血気盛んな男性兵士が宿泊し、日常的に隣接する場所でうら若い女子学生が生活しているため、風紀上の憂慮を反映した言葉。これを事務室に常駐している電話係の兵士が聞きとがめて上官に伝え、後日軍の権限をカサにS先生を私的制裁を加えたのである。