原町小学校の被害
八月十日の空襲では、原町の主な施設は殆ど攻撃を受けているが、記録で残っているものを引用してみると、原町第一小学校創立百年誌に紹介された「原町第一小学校被害報告書」は次のようだ。
「八月十日午前九時頃より約二十分間敵空襲あり、第三校舎東方約百五十米の個所に爆弾落下爆風のため、第三校舎七教室は硝子窓約五十枚飛散窓硝子役五百枚破損し機銃掃射の被弾約三十個所なり。第二回目は同日午後一時半頃より約四十分間敵機約三十機による爆弾投下機銃の掃射を反復受く。
最初に事務室中央に一発次に第一校舎に二発の直撃弾を受け事務室全壊第二校舎及宿直室青年学校銃器庫は爆風と弾片並に機銃掃射(無数)により、硝子窓等は飛散せり、事務室は爆弾投下と同時に火災発生せしが職員軍隊(学校には八月二日より燕二一八一四部隊駐留し有り)消火敢斗により約二十分間にして消火せるを以って他に類焼を免かる。両回共に全職員防空壕に退避し消火作業敏速に活動せり」
被害状況は、全滅に近い。
「教室は第一校舎玄関より右教室は階上階下十教室は爆弾のため大破壊使用不可能、玄関より向って左八教室は機銃掃射無数に受け、爆風のため硝子窓飛散、壁天井等飛散落下使用にたえず。
行動爆風のため玄関附近の屋根破損せり。青校銃器室宿使丁室等は爆風のため大破損使用不可能なり」
記録をめくれば暗然とする悲惨さの連続であった。
林七郎氏の語るところでは、
「十日の昼すぎ、北から三機飛んで来て、二番目の飛行機が、原町小学校に爆弾を命中させた。ものすごい火柱があがりました。
相馬農業校と、原紡工場からも煙がのぼっていた。
でも、そのあとすぐに雨が降ってきたんでこの雨で消えた。」
原町小学校の学校日誌にも、この日の惨状は記されている。