原ノ町駅で戦争を生き延びた100人の駅職員。半数が女子職員だった。(猪狩忠氏所蔵・提供写真=昭和23年撮影)
原ノ町駅助役だった猪狩忠さんの、当時の空襲について克明な記録手記で、八月九日と十日の駅近辺の被害について紹介しよう。
「八月九日朝から天気は良く、灼熱の炎天下を招く朝だった。五時二十分始発列車を見送って事務所に入る。二、三人の職員が集まって
「いよいよ今日は的襲来か、敵の空母が近海にいるらしい」こんな事を語り始めた。
「さあ、食い納めをしておこうか」あるいは「飲みおさめをしておこうか」と、朝食……といってもまともな御飯などない。ちょうど増産隊(駅員の一部が交代で編成し畑を五六反作っていた)が作った甘藷が若干あった。
それに夜食米がまだ少し残っていたので、女子職員に煮てもらった。
七時近かったろうか、皆なで食べ始めた頃、けたたましくサイレンが鳴った。空襲警報である。
「退避! 退避!」
鍋も釜も蹴飛ばしてわれ先に防空壕に滑り込む。
職員の行動は敏速である。(常に退避訓練はやっている)間もなく敵機は上空にあらわれた。十機も来たんだろうか、ブンブンブン蜂の巣をつついたように聞こえてくる。誰かちょっと見ないか……と言うと「私見ます」と〇〇君が壕の出入り口まで行ったとたん、ババババン……機銃掃射を浴びせられた。彼氏びっくりして転げ込むように逃げて来た。皆なは両手で眼と耳を塞いで伏して名にも語らなかった。女子職員はほとんど真っ青になって震えていた。
「皆んな一緒に死ねるんだ、本望じゃないか……」
誰かがつぶやいた。わずか十分足らずだが何十分何時間にも感じられ、長かった。敵機の爆音は遠ざかって(警報)解除になった。
その頃の女子職員はズック靴にズボン、制服までは良かったが、男子職員同様戦闘帽を被り、あご紐をかけて、はでな化粧も出来ず、りりしいものだった。家庭内に居る者は老人か身体障碍者か主婦くらいで、若い女性はほとんどが男の代わりとなって職場で働いていた。そして老若男女を問わず各人が毎日毎日一日をだいじにした。
また楽しく生きがいのある日を送っていたと思う。
物がない。あれも出来ない、これも出来ないという苦しい時ほど人間はさっぱりと不平もなく精算した一日が遅れたと思う。
当時の女子挺身隊の姿と、二十五年後の現在(※この手記は一九七〇年に書かれた)巷を闊歩するミニスカートにつけまつげ、アイシャドーに口紅……ただ溜息をつくばかり。艱難辛苦、風雪に耐え忍んで育って来た松の老木と温室育ちの華やかな草花との対照的な感がする。(※猪狩忠手記)
八月九日、夜明けを待って、双葉沖二百カイリの海上にある空母十六隻から、群れをなして艦載機は発進してきた。
「来襲した艦載機のうち一機が須賀川の西川鉄橋付近に不時着、乗員二人が捕えられ、須賀川警察署に連行され調べたところ「福島県双葉沖二百カイリに機動部隊があり、そこから発進してきた」と語った。(須賀川市史」
「午前五時四十五分から、県内全域に空襲警報が発令され」「間もなく水平線のかなたから黒い点々が…。それは夫沢(大熊)の飛行場を銃撃したと思う間もなく、海岸線沿いに請戸港上空を通過。原町飛行場方面をめがけて飛び去った」。(福島民友「玉砕の島」)
濃紺の機体が、請戸小学校近くの監視哨の頭上をすれすれに通過した。機影は五機か六機であった。
「第二波は午前八時に来た」
「午前八時から数分のできごと。請戸港一帯では、この数分の間に二十三戸が全滅し、四人が死んでいった。(同右)
これらの艦載機は、そのまま北上して原町に向かった。