別れの鼻血 新妻クラさん

「私は、家に年寄りがいたもんですから、年寄りを疎開させて、体だけあずけて来たものだから、布団を運んでいました。ちょうど、牛来堤のあたりまで戻って来た所へ連絡の人に会った」
気の毒なことをした。嘉信さんが亡くなったらしい。
と言われて、私は腰が抜けてしまって、動けなくなってしまった」
組の人たちが防空頭巾をかぶって、防空しゃく持って、十人くらいで迎えに行ってくれました。
私の主人は一人っ子で、その初孫でしたからなんぼう可愛かったかしれません。ほとんど自分で手にかけて育てたんです。夜寝る時はいつも自分と一緒でしたから、私が母親でもあずけてもらったことがないほどでした。
その可愛い孫が死んでしまって、どうしようもなく力を落として、毎日毎日仏様を拝んでばかりいた。
あの子の葬式を出すにしても、花も買えない。品物はない。本当に困りましたよ。小沢の小沢鉄男さんという人から、主人の顔で何とか花をわけてもらって、二上さんにもお分けしたんですよ。
それから、コメはもちろん、おふかしだそうと思っても、もち米なんてどこでも手に入らない。
夜の十一時頃まで歩いて竹島さんの所で、ようやく譲ってもらって、あの時のことは一生忘れられないなあ。
あの子は、隣組の人たちに運んでもらって愛宕神社の麓の墓に埋めました。あとの人たちは焼いたあとお骨でもらったはずです。うちのは土葬でした。
姑はあのあと、食事も摂らないで仏壇に向かったきり。同じ年の十二月七日に孫の後を追うように死んでしまった。
私はこれからどうやって暮らそうかと気ちがいになりそうだった。
息子の葬式をやっと出し終わったと思ったら、今度はおばあさんの葬式。
九月ころ、機関区で合同葬がありました。
機関区からサツマイモの配給があっても命と引き換えの配給なんか要らねえ、って姑はみんな投げ捨ててしまう。見舞いのお金が届いたよtt言っても、そんな金は受け取らねえって言う。
主人もあの子が死んでから気持ちも人間もsっかり変わってしまった。何つけても角を立てるんですわ。そんなヒトではなかった。
一人息子の所の嫁というのは、こんなにし合わsなのかと思ったほど、何かとしてくれるいい人だったんですが、あの時から怒ってばかりになった。
あの子は、学芸会に出たりして人気だったんですよ。その頃の学校の写真なんか出すと、そんなもの出してくるな、って叱られた。本当に人が変わった。
私も近所の(息子の)同級生なんかに会いますと思い出します。生きていれば何歳になっているはずだなあ、って」

注。角を立てる(※怒って他人に突き当たる。感情をむき出しにぶつける)

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