別れの鼻血

しかし焼いてはいけないと言われた。焼いて煙が上がると、それを上空から敵機に気づかれてまた狙われるという理由からだという。
火葬場で夫直さんの顔を見た。最後の別れをしようと、かぶせてある布をとるとマサイさんははっと息をのんだ。
ぶすぶす音を立てて鼻血を出しているのである。
死後に死者は会いたい人に会えるとその気持ちをあらわすのだということは話には聞いていたが、これがそうかと初めて知った。十日に死んで三日もたっているのに、命は体から離れることをいやがるようだ。
十五日は高平へ買い出しに行っていた。
カボチャか何か、とにかく食糧を手に入れなければならない。ちょうど昼頃であった。
「陛下のラジオ放送はお聞きになりましたか」と尋ねると、
「ええ、聞きました」
「戦争が終わって、ほっとなさいましたか」
「いいえ。とんでもない。これからどうなるんだろう、と心配ばかり。奴隷にされて子供たちもみなバラバラになってしまうのかと」
そこから四院の育ちざかりの子供をかかえた新たな生きるための自分の戦争が始まったのだ。
夫を亡くしたマサイさんは、昭和二十四年まで鉄道診療所で働き、それから福島へ移って弘済会で働いた。
「しばらくたってからのことでしたが、主人がリュックいっぱいの果物を持ってきたのをどこかで交換した筈だった。その家の人がやってきましてね。サツマイモを置いて行きました。
「こんなこと(空襲や高橋直さんの殉職)があったもんだから、すっかり遅れてしまって」
その人も機関区の人でしたが、主人が死んだあとで、主人がいろいろと家族のことを心配してくれているような気がしたものです。あの時のサツマイモは嬉しかった。あの時に嬉しさは何と言っていいかわからないほどです」
現在は。当時一歳であった長男と共に、福島市内に新居を構えて平和な毎日を送っ冷る。
「この家は、私たちの汗の結晶ですよ」
そう答えるとマサイさんの背に、高橋直さんの肖像画が見守るように掲げられている。
高橋直さんは十七歳で国鉄に勤め、二十九歳で任官試験をパスした。仏壇にはその年齢の時の写真があった。肖像画は子供を抱いている写真をもとに描かれたものだという。若々しいままの姿であった。
空襲の時には、三十四歳だった、あrから三十七年たった。あの時一歳だった長男は三十八歳。父親の年齢を越えたわけである。
実のところ、私の福島の家が大森なので高橋さんの仁井田まで車で五分の距離である。奇しき縁のある人たちは、はからずもみなそばにおられた。
死者たちは、彼らのもとを訪ね歩く私をみな心待ちにしていたようにさえ感じられた。
「体験の風化」などと、誰が言ったのだろうか。私の見聞きした空襲の体験は、今なお鮮やかすぎるほど明瞭に、きのうのことのように遺族の胸に焼き付いていた。

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