ついに富岡町の人々にとって忘れることのできない恐怖の日がやってきた。
 八月九日は、戦争中でいちばん長い日となった。よく晴れたこの日の午前五時三十分に警戒警報発令、引き続いて空襲警報が発令された。けたたましくサイレンが鳴り響き、艦載機が空を覆って低空で飛び回り、波状的に機銃掃射をあびせかける。人々にとって延々十二時間にわたる恐怖の連続であった。
午前八時、大熊町夫沢にある熊谷飛行隊磐城分校として使われていた磐城飛行場に、数えきれないほどの艦載機グラマンF6が来襲し、銃爆撃を加え、格納庫をはじめ主要施設を完全に破壊した。そして松林に隠してあった練習機を次々と墓石炎上させた。
 この磐城飛行場は、昭和十四年海岸台地であった夫沢長者原の原野を飛行場用地として確保し、地元の人々をはじめ旧制双葉中学校など多くの学生の勤労奉仕によって、十六年に完成したものである。この飛行場は、熊谷分校として、主に練習機がおかれ、飛行兵の訓練に使われていた。この日の艦載機群れの度重なる攻撃によって壊滅し、飛行場としての仕様は不可能となってしまった。
 当時、富岡町国民学校に勤めていた吉田冨子(大膳町)は、その日の恐怖を次のように回想している。
「九日の朝、家を出る前から、グラマンが北の方へ飛んで行った。学校は夏休みで児童の姿はなかった。職員は平常通り出勤、午前八時過ぎ、空襲警報が発令されると、私は学校前の防空壕にとびこみ、息をひそめていた。そのうち、キーンという金属音をたてながら敵機が近づいてきた。
バリバリっという物凄い発射音とともに機関砲で講堂と校舎の屋根をたたき割っている。学校を攻撃していることが分かるが、防空壕から一歩も出られない。
炸裂音と砂煙が立ち込めていた。後で見ると講堂の屋根を貫き、床板まで貫通して数多くの弾痕が残っていた。散乱していた薬莢もおびただしかった。

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