昭和20年8月10日のこと 昭和56年7月に取材
8月10日、早朝の六時半。二上兼次は、同僚の堀川清隆を訪問。
「あの頃、手に入らない桃を持ってきてくれた。兼次さんは、きのう列車がトンネルで停まってしまったんで、戻ってきた、と言ってました。今日まで休みをとっていたが、こんなんだから(空襲になって機関区も大変だから)出てみるよってね」。
伯父兼次は、休みだったが出勤した。
午前七時には、始業していた。七時ちょっとすぎに、サイレンが鳴った。
「来た、来た」誰かが言った。
「空襲だ!」
東の空から黒い点々が見えた。
「一機、二機、三機、四機、五機、六機、七機、八機・・・・」
来襲する敵機の数を数える者があった。
「何! そんなに来たのか!」
敵機は雲霞のようにやってきた。
「数えきれねえや!」
いっせいに待避行動に移った。次々に防空壕めがめて走り出し、飛び込んだ。
堀川さんは「軍隊帰りで若かったから」すこし遅れて防空壕に入ったという。
検査掛詰め所の防空壕は、建物の東側にあった。南側に入り口があり、北側に出口があった。
10人ぐらいの人が入れた。
技工見習いの新妻嘉博少年(16)が、まだ壕に入らないので、堀川さんが声をかけた。
「何してるんだ! 早く防空壕に入れ!」
壕の中央に、助役小林安造、高橋直、酒本幸蔵、志賀照雄、新妻嘉博少年らがいた。
壕内には小さな椅子が運び込まれて、それに座っている。
井戸川五郎は出口近くにいた。芦口寿郎は壕の奥に。紺野義身と堀川さんが、入り口近くにいた。この二人は、それぞれ海軍と陸軍の兵役を経験していた。二上兼次は堀川さんの背後にいた。
壕内は十人の男たちで窮屈なほどだった。横幅一間、奥行二間ぐらいの広さだ。
堀川談。「まず検車区がやられた。あの空襲での戦法はね、最初に機銃掃射をして、それから250キロ爆弾を投下するんですよ。」
たまたま入り口近くで、目撃していた。機関区事務所がやられた、と思った。
「機銃掃射のあと、実にきれいに並んで飛んでくる。そりゃあ、見事なほどでしたよ」
直後の二本の火柱が立った。紺野に声をかけた。「おい、海軍さんよ。飛行機の機種は何だい?」
入れ替わって紺野が外を見た。ずんぐりと黒い飛行機は、米機動部隊の空母に積載された艦載機グラマンであった。レンガ造りの隣の車庫をさかんに狙って急降下している。機銃掃射の弾幕が、壕の入り口めがけてまっすぐ、なめるように走る。
バリバリバリバリっ!
一瞬のことだった。入り口の二人がとっさに体を伏せた。そこへ、凄まじい爆風が来た。
キーン、という轟音が聞えたなり、あとは判らない。 記憶はそこで途切れた。
ちぎれた脚
芦口寿郎(取材時74)は、検査掛詰所の防空壕で命を拾った一人である。
「二上兼次さんとは、兄弟の名乗りをしたほどのつきあいで、何かと行き来をしてた。防空壕の中のどの場所にいたのかは忘れた。気がついたときには夢中で防空壕から飛び出していた。」
「忘れてしまった。語られなくなってしまったですよ。あのときのことはねえ」
私は、矢継ぎ早に質問したいのをこらえて、芦口さんが記憶を取り戻すのを待った。しかし、やはり質問は急ぎ口調になってゆく。
答えはひとつ、ひとつ、遠くから、たぐるようにして得られた。 横から夫人が助け舟をさしのべた。
「あの日は、兼次さんは休みだったのに、あんなことになっちまって。今でこそ国鉄の人は襟に徽章をつけてるけど、あの頃は、判任官以上にならないと、徽章がつけられない。兼次さんは、その徽章がついたばかりのときだった」
「本当によく遊びに来ましたよ。あの時までは。兄弟以上のつきあいだったのです。あれっきり・・」
私は深入りしすぎた気がした。忘却の向う側から聴き出せる事実は、むごたらしさしか残っていない。
「右目のところが、切れて血が出ていた。髪の毛はちりちり、顔は泥だらけ、頭もしばらくはわからなかったんですよ」
中で誰かがやられた感じは、した。
「気がついたら、防空壕(の形)が、無かった」
「気がついて、近くに、そばにちぎれた太ももがあったので、それを抱えて・・・・」
そこまでいうと、芦口さんは、みるみる涙声になり、おだやかな表情が崩れて、泣き出した。
「あのとき、二上さんも、やられた。二上さんも、・・・・」
わたしは残酷な質問を続けたことを後悔した。自責の思いと、芦口さんの泣き顔とに、一気に気持ちが引っ込んだ。
そばで聞いている夫人も涙を浮かべている。
私は深く反省した。芦口さんの古い傷口をえぐっている自分の立場が呪わしく、思わず目を伏せた。出来れば、そこまで進んだ話を引きの度したかった。
「ばらばらになってた、・・・ばらばらになってたんだ・・・・」
私は、自分の目頭から、ぼたぼたとこぼれてくる涙の下で、芦口さんの言葉をノートに筆記しつづけた。
芦口さんは、絶句したまま、泣いていた。
それ以上、質問は、出来なかった。
昭和20年8月10日、原ノ町機関区検査掛詰所の防空壕跡には、6柱の遺体があった。ばらばらになったのは、誰のものかわからない。すべては、事実をたんねんにつきあわせて、総合的な見地から判断した、のちのことである。
実は、二上兼次は、このとき、まだ生きていた。堀川清隆氏が語っている。
「しばらくして気がついた。どのくらい気を失っていたのか、自分にはわからない。腰から下が土に埋まっていました。防空壕屋根はなくなっていました。爆風で潰されたんだと思いました。直撃弾なら、みんな吹き飛ばされて、大きな穴になるはずですから。気がついたときには、壕のあった場所に、二人ぐらいいたように思う。すると、土の中から 「援けてくれ、援けてくれ」っていう声がした。二上さんの声だと思った。「いま援ける。待ってろ」と言って、とにかく這い出そうと思って、やっと出た。
靴が土の中に脱げてしまって、はだしでした。