空襲の長い一日

当時、国民学校二年生だった松本持さんは家族と共に石神方面に疎開していたが、山の上から原町の街並みを見ていた。
「ちょうどパノラマですね。原町の全景が箱庭のように見える場所でした。最初は晴れていたが、空襲が始まってから、砂煙のようなものがたくさん上がりました。空も黒い雲が下がってきた。
その黒雲の合間を、ビヤ樽のような太いグラマン機が飛び交っている。
飛行場の攻撃はすごかった。いつも見て居る日本の隼の練習とは比べ物にならない急角度です。一機ずつ黒い雲の中から急降下する。その感覚の時間が、実に正確なくらい決まってる。そのたびにオレンジ色の火柱が立った。すごい雷雨が降って、それと同時に空襲も終わったように思います。」
鈴木孝紀氏手記。
「八月に入ってからの真夏の暑い日盛り突然艦載機が群れをなして空襲してきた。
急いで浦山にあたる原町の飛行場や市街地が盛んに爆撃や機銃掃射を受けている。
海岸から猛烈なスピードで侵入し、盛んに機関砲を撃つ。そのたびに火薬の閃光が並列して地上に飛び、やがて所々から朦朦と煙が上がり始めた。
飛行場からは一機も飛ばず、あまり応戦しているようでもなく、一方的に攻撃を受けているようであった、」

予備役下士官パイロットで特攻要員であった遊佐文夫氏は、空襲の直前に原町へ着いた。
「迎えの車で飛行場に着き本部に申告したところ、何れ連絡するからそれまで待て、とのこと。ガランとした兵舎に、一体おれたちはどうしたらいいんだろう、飛行機はどこから受領してくるのかな等とブラブラしているうちにあの空襲でした。
取り壊しが間に合わず残った兵舎に取り残されたのは吾々だけ。走りました。ただ夢中で。
曳光弾を射かけながら急降下する敵機に銃身も焼けよとばかり機関銃で立ち向かっていた少年たちの勇敢さ。気が付いた時彼らと一緒になって切歯扼腕している姿でした。
飛行機はないか、飛行機は! おれの飛行機は、と。
飛行機に乗ることを夢に志願した少年飛行兵でしたが、載る飛行機もないままに、ここに配属になった連中でしたが、おそらく十六、七歳。その戦いぶりは今でもはっきりと胸に焼き付いています。(※あかねぐも)
少年飛行兵たちは丸裸であった。浅い塹壕が、数十メートル間隔でいくつも掘ってあった。その穴の真ん中に悔いが建ててある。杭には釘が一本打ってあり、これだけの代物であった。釘には小銃をかけたるのである。敵機来襲と同時に彼らは汚染した。
兵舎は屋根がなかった。国民学校の少女たちが、ブリキを叩いて伸ばし、取り片づけに動員されてたが、作業は途中で中止された。

鈴木氏手記。
「およその目的を成し終えると艦載機は、周辺の集落まで襲い始めた。突然バリバリんバリバリという、はらわたをえぐるような機銃の音が、身近に迫って来た。
思わず松の根元にひれ付した。恐怖が身に染みたように思う。
夏雲に入道雲が大きく拡がり始めた。
米機は姿を消し、大自然の閃光が走り、雷鳴と大夕立がこれに代わった。
素朴な人々は、やはり日本は神国だ、雷が敵を追い払ったのだと、天佑を語り合った。
終戦へあと数日。長い一日が暮れていった。」
(※「海岸線・終戦30周年記念号」=「原町空襲の記録」に収載「入道雲」)

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